電力と国家 (集英社新書)
日本で今、一番求められている事…それは何と言っても「震災からの復興」と「原発事故の収束」であろう。決して「TPPへの参加」や「消費税率の引き上げ」などではない。その東電・福島第一原発の事故について、首相の野田佳彦は12月16日、原子力災害対策本部で「冷温停止状態(ステップ2)の達成」を宣言し、夕方の記者会見において、野田は「発電所事故自体は収束に至ったと判断される」と語り、「工程表ステップ2」が終了した、との見解を示したそうだ。溶融した核燃料の場所すら特定できず、放射性物質の大気等への放出も続いている、というのに…。
本書は、史上空前の原子力災害を引き起こし、東北・関東等を放射能まみれにした東京電力の“生みの親”といえる松永安左エ門(1875~1971)と“育ての親”といえる木川田一隆(1899~1977)を通じて、「電力と国家の葛藤の歴史を振り返りながら、いかにすれば両者の緊張関係を保ちつつ、電力を「私益」から解き放つことができるかを考える素材を提供することを目的」(p.16)としている。とりわけ、「自分の故郷、福島県に原発を持ってきたのは、木川田その人」(p.136)であった。そして、著者は「今、この現状を木川田一隆が見たら、何を思うだろうか」(同)と問うのだ。
ところで、木川田の“名誉”のために言い添えると、彼は「原子力はダメだ。絶対にいかん」というほど「原子力政策に反対だった」(pp.136~137)。それが「豹変」した経緯は、佐高信氏が本書で縷々述べており、ある意味、本書のもう一つの肝でもあるので詳述しない。だが、木川田のいう「悪魔のような代物(=原発)」を自分の故郷に持ってきた彼の「覚悟」を、平岩外四(1914~2007)以降の東電トップは寸秒も忘れてはならなかったのだ。木川田一隆といえば「企業の社会的責任」論を首唱したことでも有名であるが、その「自覚」があったからこそ「覚悟」ができたと思う。