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トム・ジョーンズの華麗な冒険 [DVD]
この映画、面白い!
イギリス映画『トム・ジョーンズの華麗な冒険』('63)
トムは、「トムキャット(オス猫)」で知られるように、「男」を意味し、ジョーンズは最も平凡な苗字のひとつ。日本名にすれば「山田太郎の華麗な冒険」というところか(全国の山田さん、ゴメンなさい。実は筆者もかなり平凡な苗字です)。
「平凡な名前の男が繰り広げる、華麗な冒険」。タイトルからして皮肉たっぷりなのだが、これは18世紀の英国社会を風刺した物語。とにかく陽気で痛快で猥雑だ。
とある農村の大地主、オールワージー家の豪華なベッドの上で、捨て子の赤ちゃんが泣いていた。
メイドと床屋が疑いをかけられ、追放。私生児はトム・ジョーンズと名付けられ、大地主の養子に。やがてトム(アルバート・フィニー)は、自由奔放な若者に成長。大地主の甥のブリフィル(デビッド・ワーナー)は、トムとは対照的な気取り屋の模範青年で、ことごとくトムと対立する。
トムは、大地主の猟番の娘モーリー(ダイアン・シレント)に誘惑され、やがてモーリーはご懐妊。と、思いきや・・・トムが見舞いに訪れると、モーリーの寝室には何と、オールワージー家のお抱え教師のスクウェア先生のあられもないお姿が!お腹の子の父親はトムではなかったのだ。
やがてトムは、お隣の大地主ウェスタン(ニュー・グリフィス)家のお嬢様ソフィ(スザンナ・ヨーク)といい感じに。しかし、ウェスタン家との政略結婚を目論む甥っ子ブリフィルと家庭教師は、目の上のたんこぶのトムを排除しようと、ある事ない事ご乱交を大地主に耳打ちし、トムはついに勘当の身に。ひとりロンドンを目指し、また新たな女性遍歴の日々。追うは清純無垢で一途なソフィ。
出逢った女性を虜にしてしまうその罪深いフェロモンで、トラブルまで引き寄せてしまうトムは、有閑マダム(ジョイス・レッドマン)のご寵愛を受けたり、兵隊に暴力を振るわれそうになっていたご婦人(ジョーン・グリーンウッド)を助けて、これまたただならぬ仲に・・・と思いきや、何とこの女性は追放されたオールワージー家のメイドだった。えっ?て事は!! さらに情事のもつれで決闘騒ぎ。二転三転、波乱万丈。放蕩児トムの冒険譚の顛末やいかに?
強烈なブラックユーモアを放つ本作の原作は、18世紀の英国で「かくも明らさまな性の発露は、不道徳で風教を害する」と厳しく批判されたヘンリー・フィールディングの艶笑文学「Tom Jones」。日本でも、名作文学全集からたびたび外されるという憂き目に遭っているらしい。しかし、封建社会を痛烈に風刺し、生々しい人間ドラマを、笑いを交えながらあっけらかんと描くこの映画は実に愉快痛快。
歴史ものの、いわゆるコスチューム・プレイ映画は、大抵「格調高さ」を表現しようとして、当時の文化の上澄みのきれいな部分ばかりクローズアップしてしまいがちだが、本作を観ていてナルホドと思うのは、いつの時代も変わらない人間社会の欲、猥雑、歪んだ部分を皮肉たっぷりと描いている事だ。
例えば、鹿狩りのシーンの描写ひとつとっても、興奮した男たちは馬に拍車をかけまくり、馬の腹からは血がにじみ、道の行く手を遮るガチョウの群れを情け無用に踏みにじっていく。猛り狂った猟犬は鹿のはらわたを貪って、狩人は野獣のような哄笑を挙げて獲物を抱きかかえる。
食卓のシーンも、骨付き肉にかぶりつくキャラクターたちは、上流階級もクソもなく、もはや一個の欲望の塊と化した獣だ。馬車の車軸が外れて事故で人が死んだり、普通の歴史ものがフタをしている「臭いもの」が臆面もなく露呈される。本作は、文学ものとはいえ、決してロマンチシズムに酔いしれるような作品ではないのである。
監督は、トニー・リチャードソン。イギリスの「フリー・シネマ」運動の旗手で、労働者階級の「怒れる若者たち」を代弁する映画で頭角を現した監督だが、この映画に関しては、はっきり言って怒っている場合ではない。笑わずにはいられないのだ。
サイレント映画風のタッチで始まる、冒頭のトムの発見シーンにはじまり、様々な演出テクニック、カメラワークも縦横無尽。実にエネルギッシュ&ユーモラスで、リチャードソンの才気が迸る。前述の鹿狩りのシーンなどは空撮も駆使して、アクション映画のような迫力、しかも異様にしつこく見せるため(獲物以外のものは眼中にないという、人間の獣の本性が強調されている)笑ってしまう。
人間たちの噂話に、家畜たちが聞き耳を立てる描写も可笑しくて噴き出してしまった。
劇中、馬車の事故で大地主が一時危篤に陥るシーンがある。養子のトムや甥や家庭教師、使用人たち一人一人に財産の取り分を虫の息で伝えるのだが、その直後に奇跡的に回復。ここで筆者は身体をのけ反らせて爆笑してしまった。トムの「生き返ったぞ!」の嬉しそうなセリフに、トム以外の全員がガッカリする様子・・・死にかけていた主人が回復したのだから、喜ぶのが当たり前なのに、「人としての心よりも、お金が大事」という、人間社会のいつの時代も変わらない歪んだ部分が、実に判り易く風刺されているエピソードだった。
本作は、リチャードソンが脚本家のジョン・オズボーンや、「007シリーズ」の名物プロデューサー、ハリー・サルツマンと共に作ったインディペンデント系のプロダクション、ウッドフォール・フィルムズによる製作。ユナイテッド・アーチスツから資金を得て、美術や衣装など、独立プロ製作とは思えない豪華な作品に仕上がっている。
主人公トムを演じるアルバート・フィニーの飄々とした演技は、この映画の艶笑文学的な、猥雑でかつ能天気ともいえる明るさを、まさに「支えて」いるのだが、フィニー本人はこの「巻き込まれ型」の主人公があまりお気に召さず、現場では始終不機嫌だったらしい(ちょっと残念な裏話だ)。
独立系プロの製作だったため、現場はかなり大変だった様子で、田園地帯が舞台の前半はとてもエネルギッシュなのだが、ロンドンに舞台が移る後半は、スタッフも息切れだったようで、前半のパワーがなくなってしまうのが少し残念だ。後半部分は、心なしか皮肉っぽさも薄れているように思える。
監督のリチャードソンは、この映画の全体的な完成度をあまりお気に召していないようなのだが、時代は「スウィンギング・ロンドン」真っ盛り。公開されるや大ヒットを飛ばし、米アカデミー作品・監督・脚色・音楽賞を受賞。助演女優部門には3人(ダイアン・シレント、イーディス・エヴァンス、ジョイス・レッドマン)がノミネートされ、1本の映画で複数の女優が助演賞を争うという、珍しい事態となった。
しかし、筆者的には、ヒロインのソフィを演じたスザンナ・ヨークのキュートな魅力が最大のチェックポイント。スザンナ・ヨークといえば筆者的にはアルトマンの『イメージス』やスコリモフスキの『ザ・シャウト さまよえる幻響』で、「トラウマ映画女優」のイメージが強かったので、「えっ、スザンナ・ヨークってこんなに可愛いの!?」とビックリしてしまったのだ。とにかく18世紀のコスチュームが絶妙に似合って、危険なくらいにプリティーだ。スージー、若い頃はアイドル系女優だったのだろうか・・・とにかく『トム・ジョーンズの華麗な冒険』は、スザンナ・ヨーク最強魅せ魅せ映画でもあるのだ。
そんなスザンナも昨年逝去。「映画秘宝」では“スーパーマンのお母さん役”という紹介だった。よりによってそれかい!もっと他に紹介の仕方があるんじゃないか・・・と思ったものだが、筆者も甘かったようだ。これからは『トム・ジョーンズの華麗な冒険』をスザンヌ・フィルモグラフィーにしっかりと焼き付ける事にした。
本作は、いわゆる艶笑文学ものではるが、映画としては直接的なエロチック描写はほとんどなく、暗示的。しかしブラックユーモアのセンスは絶妙で最高に痛快な映画である。
考えてみれば、肉弾戦のような喧嘩チャンバラを描いたリチャード・レスターの『三銃士』や、イギリス映画史上最もクレイジーと言われるケン・ラッセルの『肉体の悪魔』といい、イギリス人監督には、歴史物をナスティに撮りたがる人たちがけっこう多い(笑)。これはちょっと研究すると面白いものが見えてくるかもしれない。
こんなに面白い『トム・ジョーンズの華麗な冒険』が絶版というのは非常にもったいない。もっと多くの人に観てもらいたい映画なのだ。ぜひ再発を。
同リチャードソン監督の『マドモアゼル』がついにソフト化される今だからこそ、一気に再評価するべし!
さて、本作の大成功を受けて、いよいよリチャードソンはアメリカに殴り込み。
『ラブド・ワン』('64)では、葬儀業界を通して、アメリカの現代社会を強烈に風刺するという、相変わらずの暴れん坊ぶりを見せつける(笑)。
タブー中のタブー「遺体」をネタに、ブラックユーモアの極北に挑んだ『The Loved One』(輸入盤DVD)のレビューも、近々書きたいと思っております。
イギリス映画『トム・ジョーンズの華麗な冒険』('63)
トムは、「トムキャット(オス猫)」で知られるように、「男」を意味し、ジョーンズは最も平凡な苗字のひとつ。日本名にすれば「山田太郎の華麗な冒険」というところか(全国の山田さん、ゴメンなさい。実は筆者もかなり平凡な苗字です)。
「平凡な名前の男が繰り広げる、華麗な冒険」。タイトルからして皮肉たっぷりなのだが、これは18世紀の英国社会を風刺した物語。とにかく陽気で痛快で猥雑だ。
とある農村の大地主、オールワージー家の豪華なベッドの上で、捨て子の赤ちゃんが泣いていた。
メイドと床屋が疑いをかけられ、追放。私生児はトム・ジョーンズと名付けられ、大地主の養子に。やがてトム(アルバート・フィニー)は、自由奔放な若者に成長。大地主の甥のブリフィル(デビッド・ワーナー)は、トムとは対照的な気取り屋の模範青年で、ことごとくトムと対立する。
トムは、大地主の猟番の娘モーリー(ダイアン・シレント)に誘惑され、やがてモーリーはご懐妊。と、思いきや・・・トムが見舞いに訪れると、モーリーの寝室には何と、オールワージー家のお抱え教師のスクウェア先生のあられもないお姿が!お腹の子の父親はトムではなかったのだ。
やがてトムは、お隣の大地主ウェスタン(ニュー・グリフィス)家のお嬢様ソフィ(スザンナ・ヨーク)といい感じに。しかし、ウェスタン家との政略結婚を目論む甥っ子ブリフィルと家庭教師は、目の上のたんこぶのトムを排除しようと、ある事ない事ご乱交を大地主に耳打ちし、トムはついに勘当の身に。ひとりロンドンを目指し、また新たな女性遍歴の日々。追うは清純無垢で一途なソフィ。
出逢った女性を虜にしてしまうその罪深いフェロモンで、トラブルまで引き寄せてしまうトムは、有閑マダム(ジョイス・レッドマン)のご寵愛を受けたり、兵隊に暴力を振るわれそうになっていたご婦人(ジョーン・グリーンウッド)を助けて、これまたただならぬ仲に・・・と思いきや、何とこの女性は追放されたオールワージー家のメイドだった。えっ?て事は!! さらに情事のもつれで決闘騒ぎ。二転三転、波乱万丈。放蕩児トムの冒険譚の顛末やいかに?
強烈なブラックユーモアを放つ本作の原作は、18世紀の英国で「かくも明らさまな性の発露は、不道徳で風教を害する」と厳しく批判されたヘンリー・フィールディングの艶笑文学「Tom Jones」。日本でも、名作文学全集からたびたび外されるという憂き目に遭っているらしい。しかし、封建社会を痛烈に風刺し、生々しい人間ドラマを、笑いを交えながらあっけらかんと描くこの映画は実に愉快痛快。
歴史ものの、いわゆるコスチューム・プレイ映画は、大抵「格調高さ」を表現しようとして、当時の文化の上澄みのきれいな部分ばかりクローズアップしてしまいがちだが、本作を観ていてナルホドと思うのは、いつの時代も変わらない人間社会の欲、猥雑、歪んだ部分を皮肉たっぷりと描いている事だ。
例えば、鹿狩りのシーンの描写ひとつとっても、興奮した男たちは馬に拍車をかけまくり、馬の腹からは血がにじみ、道の行く手を遮るガチョウの群れを情け無用に踏みにじっていく。猛り狂った猟犬は鹿のはらわたを貪って、狩人は野獣のような哄笑を挙げて獲物を抱きかかえる。
食卓のシーンも、骨付き肉にかぶりつくキャラクターたちは、上流階級もクソもなく、もはや一個の欲望の塊と化した獣だ。馬車の車軸が外れて事故で人が死んだり、普通の歴史ものがフタをしている「臭いもの」が臆面もなく露呈される。本作は、文学ものとはいえ、決してロマンチシズムに酔いしれるような作品ではないのである。
監督は、トニー・リチャードソン。イギリスの「フリー・シネマ」運動の旗手で、労働者階級の「怒れる若者たち」を代弁する映画で頭角を現した監督だが、この映画に関しては、はっきり言って怒っている場合ではない。笑わずにはいられないのだ。
サイレント映画風のタッチで始まる、冒頭のトムの発見シーンにはじまり、様々な演出テクニック、カメラワークも縦横無尽。実にエネルギッシュ&ユーモラスで、リチャードソンの才気が迸る。前述の鹿狩りのシーンなどは空撮も駆使して、アクション映画のような迫力、しかも異様にしつこく見せるため(獲物以外のものは眼中にないという、人間の獣の本性が強調されている)笑ってしまう。
人間たちの噂話に、家畜たちが聞き耳を立てる描写も可笑しくて噴き出してしまった。
劇中、馬車の事故で大地主が一時危篤に陥るシーンがある。養子のトムや甥や家庭教師、使用人たち一人一人に財産の取り分を虫の息で伝えるのだが、その直後に奇跡的に回復。ここで筆者は身体をのけ反らせて爆笑してしまった。トムの「生き返ったぞ!」の嬉しそうなセリフに、トム以外の全員がガッカリする様子・・・死にかけていた主人が回復したのだから、喜ぶのが当たり前なのに、「人としての心よりも、お金が大事」という、人間社会のいつの時代も変わらない歪んだ部分が、実に判り易く風刺されているエピソードだった。
本作は、リチャードソンが脚本家のジョン・オズボーンや、「007シリーズ」の名物プロデューサー、ハリー・サルツマンと共に作ったインディペンデント系のプロダクション、ウッドフォール・フィルムズによる製作。ユナイテッド・アーチスツから資金を得て、美術や衣装など、独立プロ製作とは思えない豪華な作品に仕上がっている。
主人公トムを演じるアルバート・フィニーの飄々とした演技は、この映画の艶笑文学的な、猥雑でかつ能天気ともいえる明るさを、まさに「支えて」いるのだが、フィニー本人はこの「巻き込まれ型」の主人公があまりお気に召さず、現場では始終不機嫌だったらしい(ちょっと残念な裏話だ)。
独立系プロの製作だったため、現場はかなり大変だった様子で、田園地帯が舞台の前半はとてもエネルギッシュなのだが、ロンドンに舞台が移る後半は、スタッフも息切れだったようで、前半のパワーがなくなってしまうのが少し残念だ。後半部分は、心なしか皮肉っぽさも薄れているように思える。
監督のリチャードソンは、この映画の全体的な完成度をあまりお気に召していないようなのだが、時代は「スウィンギング・ロンドン」真っ盛り。公開されるや大ヒットを飛ばし、米アカデミー作品・監督・脚色・音楽賞を受賞。助演女優部門には3人(ダイアン・シレント、イーディス・エヴァンス、ジョイス・レッドマン)がノミネートされ、1本の映画で複数の女優が助演賞を争うという、珍しい事態となった。
しかし、筆者的には、ヒロインのソフィを演じたスザンナ・ヨークのキュートな魅力が最大のチェックポイント。スザンナ・ヨークといえば筆者的にはアルトマンの『イメージス』やスコリモフスキの『ザ・シャウト さまよえる幻響』で、「トラウマ映画女優」のイメージが強かったので、「えっ、スザンナ・ヨークってこんなに可愛いの!?」とビックリしてしまったのだ。とにかく18世紀のコスチュームが絶妙に似合って、危険なくらいにプリティーだ。スージー、若い頃はアイドル系女優だったのだろうか・・・とにかく『トム・ジョーンズの華麗な冒険』は、スザンナ・ヨーク最強魅せ魅せ映画でもあるのだ。
そんなスザンナも昨年逝去。「映画秘宝」では“スーパーマンのお母さん役”という紹介だった。よりによってそれかい!もっと他に紹介の仕方があるんじゃないか・・・と思ったものだが、筆者も甘かったようだ。これからは『トム・ジョーンズの華麗な冒険』をスザンヌ・フィルモグラフィーにしっかりと焼き付ける事にした。
本作は、いわゆる艶笑文学ものではるが、映画としては直接的なエロチック描写はほとんどなく、暗示的。しかしブラックユーモアのセンスは絶妙で最高に痛快な映画である。
考えてみれば、肉弾戦のような喧嘩チャンバラを描いたリチャード・レスターの『三銃士』や、イギリス映画史上最もクレイジーと言われるケン・ラッセルの『肉体の悪魔』といい、イギリス人監督には、歴史物をナスティに撮りたがる人たちがけっこう多い(笑)。これはちょっと研究すると面白いものが見えてくるかもしれない。
こんなに面白い『トム・ジョーンズの華麗な冒険』が絶版というのは非常にもったいない。もっと多くの人に観てもらいたい映画なのだ。ぜひ再発を。
同リチャードソン監督の『マドモアゼル』がついにソフト化される今だからこそ、一気に再評価するべし!
さて、本作の大成功を受けて、いよいよリチャードソンはアメリカに殴り込み。
『ラブド・ワン』('64)では、葬儀業界を通して、アメリカの現代社会を強烈に風刺するという、相変わらずの暴れん坊ぶりを見せつける(笑)。
タブー中のタブー「遺体」をネタに、ブラックユーモアの極北に挑んだ『The Loved One』(輸入盤DVD)のレビューも、近々書きたいと思っております。
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ジ・イレイザー
名実ともに現在世界最高のバンドの一つであるレディオヘッドのフロントマン、トム・ヨークの初のソロアルバム。
まず、純粋に音楽を評価するとしたなら、文句無く傑作である。
しかし、これがバンド名義ではなくソロ名義でリリースする必然性があるのかというと、それは少し疑問だ。独特の「宅録臭」を感じなくもないが。
簡潔にサウンドを説明するとしたら、『KID A』や『AMNESIAC』と同じように、エレクトロニカ色が非常に強く、『OK COMPUTER』こそレディオヘッドの最高峰と考える方には不向きかもしれない。
現時点での最新作である『Hail to the Thief』では再びバンド・サウンドに回帰した印象のレディオヘッドだが、この『THE ERASER』ではもうひとつの「ポスト『KID A』、『AMNESIAC』」の情景を描き出しているように思う。
聴く者を突き放す冷たいエッジに満ちた『KID A』に比べ、この作品にはある種人間的な淋しさと優しさが入り混じっている。
とにかく『KID A』、『AMNESIAC』の世界観が好きな人にとっては買って絶対に損は無い作品であることは保障する。
だが、これにいつもレディオヘッドを聴き終えたあとに感じる、クタクタになるほどの完璧な満腹感を期待するべきではないだろう。
この作品は、トム・ヨークによる「極上の息抜き」であり、世界中の音楽ファンを魅了してやまない、レディオヘッドという怪物バンドの「次」への最高の「つなぎ」として考えるべきではないか。
もう一度言うが、これは間違いなく傑作である。
まず、純粋に音楽を評価するとしたなら、文句無く傑作である。
しかし、これがバンド名義ではなくソロ名義でリリースする必然性があるのかというと、それは少し疑問だ。独特の「宅録臭」を感じなくもないが。
簡潔にサウンドを説明するとしたら、『KID A』や『AMNESIAC』と同じように、エレクトロニカ色が非常に強く、『OK COMPUTER』こそレディオヘッドの最高峰と考える方には不向きかもしれない。
現時点での最新作である『Hail to the Thief』では再びバンド・サウンドに回帰した印象のレディオヘッドだが、この『THE ERASER』ではもうひとつの「ポスト『KID A』、『AMNESIAC』」の情景を描き出しているように思う。
聴く者を突き放す冷たいエッジに満ちた『KID A』に比べ、この作品にはある種人間的な淋しさと優しさが入り混じっている。
とにかく『KID A』、『AMNESIAC』の世界観が好きな人にとっては買って絶対に損は無い作品であることは保障する。
だが、これにいつもレディオヘッドを聴き終えたあとに感じる、クタクタになるほどの完璧な満腹感を期待するべきではないだろう。
この作品は、トム・ヨークによる「極上の息抜き」であり、世界中の音楽ファンを魅了してやまない、レディオヘッドという怪物バンドの「次」への最高の「つなぎ」として考えるべきではないか。
もう一度言うが、これは間違いなく傑作である。