神狩り (ハヤカワ文庫JA)
山田正紀氏の商業作品デビュー作である。
現代日本SF小説の代表作でもある。
コンピューター翻訳の先鋒である主人公、島津が、《神》が執筆したらしい《古代文字》を発見したことから、中国系マフィアとおぼしき宗、超能力者の理亜、《神》の存在証明を存在理由としてきた老人芳村などと邂逅し、《神を狩る》という利害関係によって、一致団結して《古代文字》の謎に肉薄してゆく。《神》との直截の対決は遅延されてゆき、《古代文字》をめぐる言語ゲームが中枢となる。亦、本作における《神》は、猶太教などにおける全知全能の神として君臨するのだが、すべからく、人間を愛する神ではなくて、《この世界は悪にみちているから、神も悪であるはずである》とする異端宗教グノーシス派における《神》にちかい。《神》は現前しないまま、宇宙内の因果関係を支配することにより、《間接的》に《古代文字》の関係者を殺戮してゆき、《想像できないことを想像する》という山田正紀氏の名言を髣髴とさせる。
福田和也氏に、《未完の大器》と絶賛された幻想SF作家、佐藤亜紀氏は、本作をリアルタイムで読破し、《人類の調和や進歩のためならば、何百万人死んでもよい、というような、小松左京的粗野》というように評価したらしいが、佐藤氏の批判は、聊か、的外れにもおもわれた――小松左京が粗野だというのはわかるが、抑ゝ、小松左京が天才であることに相違はない――。本作では《神》の全能の力によって、大量の人間が犠牲となるが、ひとりが犠牲となるたびに、島津たちは《神狩りをやめるべきか》と、真剣に懊悩する。実際に、何遍か、島津は《神狩り》を中断するのだが、精緻な物語の仕掛けによって、最終的に、島津は《神》との闘いをつづけることになる。島津たち生存者が、みずからも犠牲になる危険性とともに、《神狩り》をつづけてゆく理由は、《人類の進歩》のためというより、《犠牲者たちの鎮魂》のためというような雰囲気をおびてゆく。遠藤周作が、『沈黙』において、《なぜ神は沈黙するのか》を主題としたのとは対照的に、本作は不条理の象徴としての《神》との死闘と描破するにあたり、《神》の象徴との決戦である『白鯨』や、《人間は死んでも、負けることはねえんだぞ》という『老人と海』の構造にちかい。正直、文章は下手だが、発想、構成、物語の大胆さと緻密さは、掛値なしで星五つと評価できるだろう。
現代日本SF小説の代表作でもある。
コンピューター翻訳の先鋒である主人公、島津が、《神》が執筆したらしい《古代文字》を発見したことから、中国系マフィアとおぼしき宗、超能力者の理亜、《神》の存在証明を存在理由としてきた老人芳村などと邂逅し、《神を狩る》という利害関係によって、一致団結して《古代文字》の謎に肉薄してゆく。《神》との直截の対決は遅延されてゆき、《古代文字》をめぐる言語ゲームが中枢となる。亦、本作における《神》は、猶太教などにおける全知全能の神として君臨するのだが、すべからく、人間を愛する神ではなくて、《この世界は悪にみちているから、神も悪であるはずである》とする異端宗教グノーシス派における《神》にちかい。《神》は現前しないまま、宇宙内の因果関係を支配することにより、《間接的》に《古代文字》の関係者を殺戮してゆき、《想像できないことを想像する》という山田正紀氏の名言を髣髴とさせる。
福田和也氏に、《未完の大器》と絶賛された幻想SF作家、佐藤亜紀氏は、本作をリアルタイムで読破し、《人類の調和や進歩のためならば、何百万人死んでもよい、というような、小松左京的粗野》というように評価したらしいが、佐藤氏の批判は、聊か、的外れにもおもわれた――小松左京が粗野だというのはわかるが、抑ゝ、小松左京が天才であることに相違はない――。本作では《神》の全能の力によって、大量の人間が犠牲となるが、ひとりが犠牲となるたびに、島津たちは《神狩りをやめるべきか》と、真剣に懊悩する。実際に、何遍か、島津は《神狩り》を中断するのだが、精緻な物語の仕掛けによって、最終的に、島津は《神》との闘いをつづけることになる。島津たち生存者が、みずからも犠牲になる危険性とともに、《神狩り》をつづけてゆく理由は、《人類の進歩》のためというより、《犠牲者たちの鎮魂》のためというような雰囲気をおびてゆく。遠藤周作が、『沈黙』において、《なぜ神は沈黙するのか》を主題としたのとは対照的に、本作は不条理の象徴としての《神》との死闘と描破するにあたり、《神》の象徴との決戦である『白鯨』や、《人間は死んでも、負けることはねえんだぞ》という『老人と海』の構造にちかい。正直、文章は下手だが、発想、構成、物語の大胆さと緻密さは、掛値なしで星五つと評価できるだろう。