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The Big Sleep
双葉十三郎の訳では不満だった。kindleの助けを借りて読んだ原本は至福の時を与えてくれた。清水俊二訳があれば春樹訳もより楽しめたし、なによりもっと評価されただろう。マーロウはこの後の長編よりずいぶんしゃべるしキスもする。まだ33歳だ。歯切れのよい傑作です。
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バッハ:カンタータ全集(8)
コープマンによるバッハ・カンタータ全集の第8巻。「ライプツィヒ第1年巻」のカンタータ12曲が収録されている。
12曲のうち5曲がクリスマス用のカンタータであり、管楽器が華やかに活躍する曲が多く、「百花繚乱」の趣きがある。
収録曲の中では、冒頭の第65番が圧倒的にすばらしい。リズミカルな速いテンポに乗ったホルンの勇壮な響きとリコーダーの可憐な音色のからみ合いが楽しく、バスとテノールの難度の高いアリアもそれぞれの歌手が見事にアグレッシヴに歌いこなしている。コープマンの持ち味がすべてプラスに働いた名演だ。
その他の曲もレベルの高い演奏だが、やや「勇み足」気味な解釈が気になる。第60番の第1曲のアルトをソロではなく合唱で歌わせたり(しかもかなりの高速テンポ)、第109番の冒頭合唱を各パート一人で歌わせて(なのに最後のコラールは各パート複数名の合唱)、通奏低音にチェンバロを用いるなどかなりの自由奔放、やりたい放題ぶりである。この辺は人によって好みが分かれるかもしれないが、いかにもコープマンらしい。
12曲のうち5曲がクリスマス用のカンタータであり、管楽器が華やかに活躍する曲が多く、「百花繚乱」の趣きがある。
収録曲の中では、冒頭の第65番が圧倒的にすばらしい。リズミカルな速いテンポに乗ったホルンの勇壮な響きとリコーダーの可憐な音色のからみ合いが楽しく、バスとテノールの難度の高いアリアもそれぞれの歌手が見事にアグレッシヴに歌いこなしている。コープマンの持ち味がすべてプラスに働いた名演だ。
その他の曲もレベルの高い演奏だが、やや「勇み足」気味な解釈が気になる。第60番の第1曲のアルトをソロではなく合唱で歌わせたり(しかもかなりの高速テンポ)、第109番の冒頭合唱を各パート一人で歌わせて(なのに最後のコラールは各パート複数名の合唱)、通奏低音にチェンバロを用いるなどかなりの自由奔放、やりたい放題ぶりである。この辺は人によって好みが分かれるかもしれないが、いかにもコープマンらしい。
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大いなる眠り (ハヤカワ・ミステリ文庫)
僕はチャンドラー・ファンのつもりですが、恥ずかしながら『大いなる眠り』だけはこれまで読了できたことがありませんでした。
何度か挑戦したものの、チャンドラー節に酔う前に倦んでしまい、飛ばし読み流し読みモードに入って、なんとか最後まで読み終わったような感じで終わってしまい、他の長編作品のように何度も読見返すようなことがありません。
ひとつには訳のせいもあるかと思います。清水俊二さん訳のチャンドラーに馴染みすぎているのかもしれません。もうひとつには、ストーリーです。もともとチャンドラーの話しはしばしば脇道に飛ぶ傾向にあるのですが、それにしても『大いなる眠り』はその程度が激しすぎる感じが強く、読み疲れてしまう。みっつめは、映画(三つ数えろ、Hボガート主演)の影響なのですが映画の話しはやめておきます。
そんな僕が、今回初めて『大いなる眠り』を完読することができました。しかも一気に読み切って。
僕はこれまでどちらかというと、清水訳と比べて村上春樹さん訳は、どこかスタイリッシュでスマートなものの、登場人物の熱っぽさやセリフの余韻が清水訳に比べて感じることが少なかった為、村上訳を特に好むことはなかったのですが、今回ばかりは、未完読の大作を最後まで読ませてくれた村上さんに大いに感謝し、同時に翻訳中の様々な辛苦を心から労いたいと思いました。
実際、読んでいて、地の文でもセリフでも、翻訳に苦労されているなと感じる箇所が何度も散見されました。とくに今訳では、日本語で(あるいは現在の米国でさえ)使っていないような当時の言い回しを、日本語に合うよう無理に翻訳するのではなく、可能な限り当時の作品に忠実な言葉で訳すよう努力しているように感じました。具体的なコトバや表現は省きますが、カナ文字外来語と、難しい漢語(おそらくエンタメ小説ではめったに見ない)が、わずかなセンテンスの中に繰り返し同居するという、文学的才能の高い訳者ならではの訳文と言えましょう。そのため、僕のような文学センスがゼロの人間は、読んでいて何度もリズムが崩されました。村上春樹氏がこんなリズムの悪い文章を書くとは思えないので、おそらく原文に忠実に訳し、作品そのままを堪能して欲しいという願いがあるのではないかと、読中、想像したりもしました。
で、あとがきを読んで、やっぱりそうだったようです。村上氏がチャンドラーに対して「おいおい、そこまでやるか…」と言っています。
村上訳本の、あとがきが読むのが楽しみです。訳者である前に、チャンドラーの大ファンであり、研究家であり、その作風に大いに影響を受けた村上氏ならではの、あとがきは、多くの他の評論より遙かに味があります。今回も楽しめました。
当作品は長いお別れに通じる全てがあると村上氏は語っています。
僕には、たしかに共通項はあるけれども、むしろハメットの赤い収穫やガラスの鍵にも似たパルプマガジンっぽさが色濃く残っているように思えたので、新鮮な刺激でした。
ただ、タイトルの訳について、すでに自身が従来のタイトルに馴染んでいるのでそのままにしたと書いているのは正直驚いた。別の理由があったのではないかと考えるのは、下司の勘ぐりだろうか?(だって、これまでの訳は違ったわけだから)
何度か挑戦したものの、チャンドラー節に酔う前に倦んでしまい、飛ばし読み流し読みモードに入って、なんとか最後まで読み終わったような感じで終わってしまい、他の長編作品のように何度も読見返すようなことがありません。
ひとつには訳のせいもあるかと思います。清水俊二さん訳のチャンドラーに馴染みすぎているのかもしれません。もうひとつには、ストーリーです。もともとチャンドラーの話しはしばしば脇道に飛ぶ傾向にあるのですが、それにしても『大いなる眠り』はその程度が激しすぎる感じが強く、読み疲れてしまう。みっつめは、映画(三つ数えろ、Hボガート主演)の影響なのですが映画の話しはやめておきます。
そんな僕が、今回初めて『大いなる眠り』を完読することができました。しかも一気に読み切って。
僕はこれまでどちらかというと、清水訳と比べて村上春樹さん訳は、どこかスタイリッシュでスマートなものの、登場人物の熱っぽさやセリフの余韻が清水訳に比べて感じることが少なかった為、村上訳を特に好むことはなかったのですが、今回ばかりは、未完読の大作を最後まで読ませてくれた村上さんに大いに感謝し、同時に翻訳中の様々な辛苦を心から労いたいと思いました。
実際、読んでいて、地の文でもセリフでも、翻訳に苦労されているなと感じる箇所が何度も散見されました。とくに今訳では、日本語で(あるいは現在の米国でさえ)使っていないような当時の言い回しを、日本語に合うよう無理に翻訳するのではなく、可能な限り当時の作品に忠実な言葉で訳すよう努力しているように感じました。具体的なコトバや表現は省きますが、カナ文字外来語と、難しい漢語(おそらくエンタメ小説ではめったに見ない)が、わずかなセンテンスの中に繰り返し同居するという、文学的才能の高い訳者ならではの訳文と言えましょう。そのため、僕のような文学センスがゼロの人間は、読んでいて何度もリズムが崩されました。村上春樹氏がこんなリズムの悪い文章を書くとは思えないので、おそらく原文に忠実に訳し、作品そのままを堪能して欲しいという願いがあるのではないかと、読中、想像したりもしました。
で、あとがきを読んで、やっぱりそうだったようです。村上氏がチャンドラーに対して「おいおい、そこまでやるか…」と言っています。
村上訳本の、あとがきが読むのが楽しみです。訳者である前に、チャンドラーの大ファンであり、研究家であり、その作風に大いに影響を受けた村上氏ならではの、あとがきは、多くの他の評論より遙かに味があります。今回も楽しめました。
当作品は長いお別れに通じる全てがあると村上氏は語っています。
僕には、たしかに共通項はあるけれども、むしろハメットの赤い収穫やガラスの鍵にも似たパルプマガジンっぽさが色濃く残っているように思えたので、新鮮な刺激でした。
ただ、タイトルの訳について、すでに自身が従来のタイトルに馴染んでいるのでそのままにしたと書いているのは正直驚いた。別の理由があったのではないかと考えるのは、下司の勘ぐりだろうか?(だって、これまでの訳は違ったわけだから)
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大いなる眠り
チャンドラーの小説は、プロットは曖昧で、ストーリーはそれほど劇的でもなく、ミステリーとしてみると物足りないかもしれない。
それでも読み続けられる原因は、その文体からにじみ出るチャンドラーならではの雰囲気を楽しみたいからなのかも知れません。
たとえばスターンウッド将軍の次女カーメンのくちもとをチャンドラーは次のように描写します。
「小さく鋭い、捕食動物を思わせる歯が見えた。新鮮なオレンジの甘皮のように白く、陶器のように鮮やかだ」
スターンウッド将軍自身の描写は
「かさかさの白髪がいくつかの房になって、頭皮にしがみついていた。まるで野生の花が、むき出しの岩の上で生命を維持するべく闘っているみたいに」
長女ヴィヴィアンの素敵な足については
「ふくらはぎは美しく、踵は細くすらりとして、そのなめらかな旋律は交響詩の一節になりそうだ」
そのスターンウッド将軍と会う温室の植物については
「不気味な肉厚の葉、洗われたばかりの死人の指のような茎、それらは毛布の下でアルコールを沸騰させているような強烈な匂いを放っていた」
などなど、例を挙げればきりがないほどです。歯の白さを陶器の白さに喩えることはできても、オレンジの甘皮に喩えるなんて思いもつきませんが、そんな比喩をさり気なくさらりと使いこなすところがチャンドラーの凄いところなのでしょう。
また、主要な登場人物のみならず、ほんの脇役でも実に魅力的に描きます。
例えば、狭くて小さな書店の女性は、本書の中ではほんの4ページ分しか登場せず、その後も一切登場しないのにもかかわらず、マーロウとの会話は知的で魅力的であり、強く印象に残る。
本書は「ロンググッドバイ」や「さよなら愛しい人」に比べるとちょっと地味な印象です。
しかし、上記のような点に注意して本書を読んでいくと、チャンドラー小説を読む面白みが味わえます。
それでも読み続けられる原因は、その文体からにじみ出るチャンドラーならではの雰囲気を楽しみたいからなのかも知れません。
たとえばスターンウッド将軍の次女カーメンのくちもとをチャンドラーは次のように描写します。
「小さく鋭い、捕食動物を思わせる歯が見えた。新鮮なオレンジの甘皮のように白く、陶器のように鮮やかだ」
スターンウッド将軍自身の描写は
「かさかさの白髪がいくつかの房になって、頭皮にしがみついていた。まるで野生の花が、むき出しの岩の上で生命を維持するべく闘っているみたいに」
長女ヴィヴィアンの素敵な足については
「ふくらはぎは美しく、踵は細くすらりとして、そのなめらかな旋律は交響詩の一節になりそうだ」
そのスターンウッド将軍と会う温室の植物については
「不気味な肉厚の葉、洗われたばかりの死人の指のような茎、それらは毛布の下でアルコールを沸騰させているような強烈な匂いを放っていた」
などなど、例を挙げればきりがないほどです。歯の白さを陶器の白さに喩えることはできても、オレンジの甘皮に喩えるなんて思いもつきませんが、そんな比喩をさり気なくさらりと使いこなすところがチャンドラーの凄いところなのでしょう。
また、主要な登場人物のみならず、ほんの脇役でも実に魅力的に描きます。
例えば、狭くて小さな書店の女性は、本書の中ではほんの4ページ分しか登場せず、その後も一切登場しないのにもかかわらず、マーロウとの会話は知的で魅力的であり、強く印象に残る。
本書は「ロンググッドバイ」や「さよなら愛しい人」に比べるとちょっと地味な印象です。
しかし、上記のような点に注意して本書を読んでいくと、チャンドラー小説を読む面白みが味わえます。