何だかんだ言っても園子温が、今をときめく映画人なのは間違いない。で、自伝とも言える本書を読んでみたが、どうもサービス精神からのホラではないかと思える部分もある。しかし、このバイタリティはスゴいと思う。短いせいもあるが、一気に読んでしまった。
私個人の彼の映画の評価を今まで振り返ってみると、新作順から
希望の国 ☆5/ ヒミズ ☆3
恋の罪(以下、「罪」) ☆2/ 冷たい
熱帯魚(以下、「魚」) ☆3
ちゃんと伝える ☆5/ 愛のむきだし ☆5
エクステ ☆2/ ハザード ☆4
紀子の食卓 ☆4/ 自殺サークル ☆4
となる。満島と離れて神楽坂を重用するようになった2作(「魚」と「罪」)あたりの評価が低い。エクステも低いが、これは頼まれ仕事だろうから除外する。なぜ先述の二つが嫌かというと、役者のキャリアを汚すようなシーンがあったからだ。具体的には「魚」における、
吹越満が妻を犯しながら娘をグーで殴るシーンと、「罪」における、神楽坂が地べたに座って弁当をガツガツ食うシーンだ。役者に厳しいのと役者を汚すのは違うと思う。本書でも、役者に対する演出上の姿勢が書いてあるが、「役者に嫌われてもいい」みたいなことは芸術家肌の監督が言いそうなことだし、べつに間違ってないと思うけど、ああいうシーンを撮ることを正当化する常套句には使ってほしくない。デブラ・ウィンガーが「探される」ような存在になってしまったのは、ベルトリッチのせいだと思う。「ラスト・タンゴ・イン・
パリ」のマリア・シュナイダーも、その後、あまり良いキャリアを積んでないと思う。爛れた情事、みたいのを演じた女優は、暗いイメージが付いてしまって払拭するのが難しくなるリスクを抱える。その辺を配慮しないとダメだろう。ニコラス・ローグ監督「ジェラシー」におけるテレサ・ラッセルは、そのへんの配慮もあって、そんなに暗い感じにならなかった。「
ナインハーフ」を主演俳優ミッキー・ロークが振り返って、「ラストタンゴイン
パリ」を越えようとしてたのに監督も女優もビビっちゃってあの程度にしかならなかった、などと言ってたが、その後のキム・ベイシンガーの「あなたに恋のリフレイン」での軽快なコメディエンヌぶりを見ると、ロークの意見が通らなくて「あの程度」でホントに良かったと思う。メグ・ライアンも豪州女流監督の変な映画に出てキャリア崩壊したんじゃなかったっけ?
もっと分かりやすい例を挙げようか?「愛のコリーダ」のアベサダを演じた女優・松田×子だよ。あんな役の後で普通の人なんか演じられるわけがない。そこまでして撮るほど愛人の陰茎を切った女の話なんて面白いかね?俺はつまらんと思う。北野監督にも初期には、殴られ役への配慮が薄いと思えるところがあったが、世評が高まるにつれてそういう欠点は無くなっていった。実るほど頭を垂れる稲穂かなってことか。
園監督にベルトリッチやオオシマみたいな監督になってほしくないので、以上の点を悔い改めてほしいと思う。「エログロの園」と思われてるらしいけど、私はそう思ったことはあんまりなくて、園映画のその手のシーンはポップなフィルターを通されているので、生々しくないから受け入れやすいと思う。ケン・ラッセル監督の「クライム・オブ・パッション」もそのタイプで、その後の主演女優キャサリン・ターナーは平気で明るい役を演じまくっていた。あれもエログロ的な要素のある映画だったが、べつに暗いイメージが彼女に染み着かなかった。「魚」や「罪」のくだんのシーンは、ポップなフィルターを通すのを忘れた、ということだ。
典型的な地方の教育的家庭に生まれ金属バットで親を殺そうと思ったと述懐してるが、そりゃそうだろうな、そうじゃなきゃあんな映画を撮りっこないと思った。いっぽう、賞を撮った自作の上映会に両親を招待したというのは日本的じゃないというか、欧米人っぽい感覚だよな、と思って、その希有さが好ましかった。
自主制作映画が評価されたのに、しばらく何の意味も無い「ガガガ」活動をやってたとか、この遠回りぶりも天才的。