小説のタクティクス (単行本)
本書は著者の明治大学商学部招聘による特別講座の講義を基に執筆されている。「小説とはなにか。それはどこまで有効か。」と帯に書かれている言葉を、恐らく本著を読了した者は深く心に刻みつけることになるだろう。というのもその問いこそがこの評論の屋台骨と読んでも過言ではないからだ。
まず、本作品は優れた小説論であり表現論であるといえる。本作は同じ著者の『小説のストラテジー』の姉妹編的な立場ではあるが、続編ではなく、直接に連続している訳ではないので、恐らくどちらから先に読んでも構わない。
『小説のストラテジー』が小説という芸術の形式が持つ個別の戦略を追ったものであり、小説など文芸の内部の充実性について語ったものだとすれば、今回の『小説のタクティクス』はむしろ個別の戦術を追っている。
つまり著者の言葉を借りれば「芸術における戦術の問題とは、即ち、様式の問題です。(中略)今、ここで、何をどのように取り上げるか、その結果どのような形式が可能になるか(P.26)」が問われており、つまり、前著作が小説という芸術に迫っていき、むしろ通時的な文学論であったのに対し、本作は個別の作例を可能にした芸術の様式を追うために、諸ジャンルの芸術がかなり横断的に扱われている。そして、恐らく想像されるよりも著述はかなりのアクチュアリティを持っている。しかしそのアクチュアリティ、つまり、「9.11や3.11後の表現」についても記述を欠くことはないのだが、一方では極めて広い視座から語り起こされている。
本書は古代ローマのアウグストゥス像とコンスタンティヌス像の表現上の差異から語り起こされ、ピコ・デッラ・ミランドラに代表されるルネサンス以後の「人間性」の概念が十九世紀近代に至るまでにどう変容し、二十世紀前半でどう破綻を来し、二十世紀後半のポストモダン社会のグローバル資本主義の薄皮の上で、亡霊のように徘徊しているかまでを、極めて広い規模でありながらその精密な表現への記述の粘り強さにおいて、極めて説得力ある論述としている。その過程で参照される作例はアングルやドラクロワ、シーレやディクスといった画家、アウグスト・ザンダーといった写真家、エイゼンシュタインやリーフェンシュタールやスピルバーグの『宇宙戦争』からキュアロンの『トゥモロー・ワールド』と言った映画監督たち、そして小説家としてはペトロニウスやナボコフ、B・E・エリスやジョナサン・リテル、伊藤計劃などと極めて多様な創作者たちが挙げられている。
そのすべてを貫く鍵概念が「人間の顔」の表現である。レヴィナスなどの他者論に代表されるまでもなく、人間の顔、とは一つの他者性を表し続けてきた概念であった。例えば、『創世記』で神はアダムとイヴの前に「顔」として現われ、『出エジプト記』においては「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。(新共同訳3:11)」のである。すなわち人間の顔の表現とは、人間がどのように人間を捉えてきたか、という鏡合わせの表現であった。旧約聖書においては、絶対的な他者が人間に「顔と顔を合わせて」語るように現われるという所に一大転機が存在しているが(世界と対話的な関係性や責任を結ぶということでもある)、この顔という表象の場においては、様々な時代の痕跡が「汝自らを知れ」と呼びかけてくるのである。
この呼び声は近代社会における「万民が自らの顔を自らで作ることが出来る」という神話の生成で大きな転機を迎えることになる。アングルが殆ど偽悪的なまでにその「顔」を強調しながらその近代的人間像の矛盾を描き出しているなら、ドラクロワやダヴィッドに代表される表現はその「顔」を英雄的に力強く描き上げればあげるほどに、その限界性を露呈することになる。やがて二十世紀に至り、その「近代的人間像」はエイゼンシュタイン、特にリーフェンシュタールのような民族主義的なプロパガンダに組み込まれ、その複雑な「人間の顔」は取り込まれて平面的なものに成り下がるのであった。こういった隠蔽性を暴いたのがアウグスト・ザンダーの多面的な社会の顔を切り取った写真や、ディクスやシーレのような近代社会が与えてくれるような世界の安定性を剥ぎ取るような芸術である。小説の作例では、ナボコフの作品におけるミメーシス(描写)や語り手の分裂構造のその一端が見られる。それらでは国家や自身が不可視のものにしてきた、世界における暴力の痕跡の堆積と、その「薄皮一枚」の上で安住している人間を、天幕を裂かせるように暴いて見せるのである。
それでは現代の「人間の顔」はどのような表現を与えられているのか。その中でも白眉といえるのは、(安易に批判されることも多い)スピルバーグ『宇宙戦争』と『シンドラーのリスト』の分析である。後者では歴史の死者にあえて「顔を与える」ことで改めてホロコーストの悲惨を想起させるものであったのに対し、前者ではボスニア内戦や9.11などの現代の戦争、特にハリウッド映画的な「顔」を無名性の中に返そうとする試みであることが示される。
小説作品では、B・E・エリスの『アメリカン・サイコ』のように現代消費社会の巨大な渦の中で、物に付随する属性しか認識できず、残虐な犯罪行為でさえその代わりにならず、「人間の顔」を一切取り戻すことが出来ない上に主人公自身もその事実さえ認識できないという主人公ベイトマンや、ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』のマクシミリアン・アウエ、ナチスの将校に自ら身を転じ、官僚的な「凡庸な悪」の上に身を置き続けてあえて人間性を放棄することで、模範的将校として個人的な汚辱を封印しようとする(と同時に封印し切れずに残余を残し続ける)人間、この二人が「兄弟なる人類」として語りかけてくるのである。もちろんこの二人は極端な例かもしれない。しかし「彼ら」と「私たち読者」は果たしてどのように違うといえるのだろうか? ナチス・ドイツの「凡庸な悪」はグローバル資本主義の「凡庸な悪」とどのように違うといえるだろうか? その意味で『宇宙戦争』が9.11の記憶を十分に含んでいることを思い出してもよい。結果的に9.11は、いわゆる「内部/外部」、「オクシデント/オリエント」、「自由主義/全体主義」、「敵/味方」といった二項対立的な安易な世界の理解を許さなくなる一つの契機だったのである。
結尾部で述べられるのは現代日本の文学表現といわゆる「3.11後の表現」の(不)可能性である。これに関して概略を述べるのは控えておこう。ただし言えるのは、戦後のテクノロジー礼讃に追従する文学表現の単純さがまだ亡霊のように徘徊する姿に、余りにも多く手早く氾濫する「3.11後」の表現の奇妙に消費物めいた有り方の中に、かなり辛辣な意見を著者が抱えているという点だ。特に、単純に現代の小説への処方箋を求めようとこの本を手に取ろうとする方がいるならば、かなりの衝撃を与えるに違いないだろう、と断言できる。
最終的に述べられる「新しい小説の様式」は――これがあくまで「様式」であることは留意しなければならないが――恐らく多くの”一般読者”にとってかなりの反発を招くだろう。しかしあえて言いたいのは、そのような反発を招くことが既に、「新しい器」としての弾力を秘めているということだ。ここでお勧めしたいのは、もう一度帯の言葉に立ち戻って考えることである。
「小説とはなにか。それはどこまで有効か。」、小説という様式が実は十九世紀に隆盛を迎え、いわゆる古典的なカノン(規範)や形式がその時代に作り上げられているが(その点に対する批判は『小説のストラテジー』に顕著である)、著者は十九世紀の小説の作例に関して殆ど何も語らない。加えれば、その十九世紀的な小説の有り方を保守し続けたままでいるのが日本文学だと指摘するのは過言ではないだろう。いわゆる文学者たちには、小説という形式に隠された「薄皮の下」を覗き込むこの誠実な批評に果たして応答が可能なのだろうか。著者はこれに悲観的な視点を示しているが、一読者としてはその可能性に一縷の望みをかけたいという思いも捨て切れない。
いずれにしても、本書は文学や芸術に関心を持ち続ける、安逸せる「兄弟なる人類」である多くの読者たちにとって、まさしく必読の一冊といえるだろう。
まず、本作品は優れた小説論であり表現論であるといえる。本作は同じ著者の『小説のストラテジー』の姉妹編的な立場ではあるが、続編ではなく、直接に連続している訳ではないので、恐らくどちらから先に読んでも構わない。
『小説のストラテジー』が小説という芸術の形式が持つ個別の戦略を追ったものであり、小説など文芸の内部の充実性について語ったものだとすれば、今回の『小説のタクティクス』はむしろ個別の戦術を追っている。
つまり著者の言葉を借りれば「芸術における戦術の問題とは、即ち、様式の問題です。(中略)今、ここで、何をどのように取り上げるか、その結果どのような形式が可能になるか(P.26)」が問われており、つまり、前著作が小説という芸術に迫っていき、むしろ通時的な文学論であったのに対し、本作は個別の作例を可能にした芸術の様式を追うために、諸ジャンルの芸術がかなり横断的に扱われている。そして、恐らく想像されるよりも著述はかなりのアクチュアリティを持っている。しかしそのアクチュアリティ、つまり、「9.11や3.11後の表現」についても記述を欠くことはないのだが、一方では極めて広い視座から語り起こされている。
本書は古代ローマのアウグストゥス像とコンスタンティヌス像の表現上の差異から語り起こされ、ピコ・デッラ・ミランドラに代表されるルネサンス以後の「人間性」の概念が十九世紀近代に至るまでにどう変容し、二十世紀前半でどう破綻を来し、二十世紀後半のポストモダン社会のグローバル資本主義の薄皮の上で、亡霊のように徘徊しているかまでを、極めて広い規模でありながらその精密な表現への記述の粘り強さにおいて、極めて説得力ある論述としている。その過程で参照される作例はアングルやドラクロワ、シーレやディクスといった画家、アウグスト・ザンダーといった写真家、エイゼンシュタインやリーフェンシュタールやスピルバーグの『宇宙戦争』からキュアロンの『トゥモロー・ワールド』と言った映画監督たち、そして小説家としてはペトロニウスやナボコフ、B・E・エリスやジョナサン・リテル、伊藤計劃などと極めて多様な創作者たちが挙げられている。
そのすべてを貫く鍵概念が「人間の顔」の表現である。レヴィナスなどの他者論に代表されるまでもなく、人間の顔、とは一つの他者性を表し続けてきた概念であった。例えば、『創世記』で神はアダムとイヴの前に「顔」として現われ、『出エジプト記』においては「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。(新共同訳3:11)」のである。すなわち人間の顔の表現とは、人間がどのように人間を捉えてきたか、という鏡合わせの表現であった。旧約聖書においては、絶対的な他者が人間に「顔と顔を合わせて」語るように現われるという所に一大転機が存在しているが(世界と対話的な関係性や責任を結ぶということでもある)、この顔という表象の場においては、様々な時代の痕跡が「汝自らを知れ」と呼びかけてくるのである。
この呼び声は近代社会における「万民が自らの顔を自らで作ることが出来る」という神話の生成で大きな転機を迎えることになる。アングルが殆ど偽悪的なまでにその「顔」を強調しながらその近代的人間像の矛盾を描き出しているなら、ドラクロワやダヴィッドに代表される表現はその「顔」を英雄的に力強く描き上げればあげるほどに、その限界性を露呈することになる。やがて二十世紀に至り、その「近代的人間像」はエイゼンシュタイン、特にリーフェンシュタールのような民族主義的なプロパガンダに組み込まれ、その複雑な「人間の顔」は取り込まれて平面的なものに成り下がるのであった。こういった隠蔽性を暴いたのがアウグスト・ザンダーの多面的な社会の顔を切り取った写真や、ディクスやシーレのような近代社会が与えてくれるような世界の安定性を剥ぎ取るような芸術である。小説の作例では、ナボコフの作品におけるミメーシス(描写)や語り手の分裂構造のその一端が見られる。それらでは国家や自身が不可視のものにしてきた、世界における暴力の痕跡の堆積と、その「薄皮一枚」の上で安住している人間を、天幕を裂かせるように暴いて見せるのである。
それでは現代の「人間の顔」はどのような表現を与えられているのか。その中でも白眉といえるのは、(安易に批判されることも多い)スピルバーグ『宇宙戦争』と『シンドラーのリスト』の分析である。後者では歴史の死者にあえて「顔を与える」ことで改めてホロコーストの悲惨を想起させるものであったのに対し、前者ではボスニア内戦や9.11などの現代の戦争、特にハリウッド映画的な「顔」を無名性の中に返そうとする試みであることが示される。
小説作品では、B・E・エリスの『アメリカン・サイコ』のように現代消費社会の巨大な渦の中で、物に付随する属性しか認識できず、残虐な犯罪行為でさえその代わりにならず、「人間の顔」を一切取り戻すことが出来ない上に主人公自身もその事実さえ認識できないという主人公ベイトマンや、ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』のマクシミリアン・アウエ、ナチスの将校に自ら身を転じ、官僚的な「凡庸な悪」の上に身を置き続けてあえて人間性を放棄することで、模範的将校として個人的な汚辱を封印しようとする(と同時に封印し切れずに残余を残し続ける)人間、この二人が「兄弟なる人類」として語りかけてくるのである。もちろんこの二人は極端な例かもしれない。しかし「彼ら」と「私たち読者」は果たしてどのように違うといえるのだろうか? ナチス・ドイツの「凡庸な悪」はグローバル資本主義の「凡庸な悪」とどのように違うといえるだろうか? その意味で『宇宙戦争』が9.11の記憶を十分に含んでいることを思い出してもよい。結果的に9.11は、いわゆる「内部/外部」、「オクシデント/オリエント」、「自由主義/全体主義」、「敵/味方」といった二項対立的な安易な世界の理解を許さなくなる一つの契機だったのである。
結尾部で述べられるのは現代日本の文学表現といわゆる「3.11後の表現」の(不)可能性である。これに関して概略を述べるのは控えておこう。ただし言えるのは、戦後のテクノロジー礼讃に追従する文学表現の単純さがまだ亡霊のように徘徊する姿に、余りにも多く手早く氾濫する「3.11後」の表現の奇妙に消費物めいた有り方の中に、かなり辛辣な意見を著者が抱えているという点だ。特に、単純に現代の小説への処方箋を求めようとこの本を手に取ろうとする方がいるならば、かなりの衝撃を与えるに違いないだろう、と断言できる。
最終的に述べられる「新しい小説の様式」は――これがあくまで「様式」であることは留意しなければならないが――恐らく多くの”一般読者”にとってかなりの反発を招くだろう。しかしあえて言いたいのは、そのような反発を招くことが既に、「新しい器」としての弾力を秘めているということだ。ここでお勧めしたいのは、もう一度帯の言葉に立ち戻って考えることである。
「小説とはなにか。それはどこまで有効か。」、小説という様式が実は十九世紀に隆盛を迎え、いわゆる古典的なカノン(規範)や形式がその時代に作り上げられているが(その点に対する批判は『小説のストラテジー』に顕著である)、著者は十九世紀の小説の作例に関して殆ど何も語らない。加えれば、その十九世紀的な小説の有り方を保守し続けたままでいるのが日本文学だと指摘するのは過言ではないだろう。いわゆる文学者たちには、小説という形式に隠された「薄皮の下」を覗き込むこの誠実な批評に果たして応答が可能なのだろうか。著者はこれに悲観的な視点を示しているが、一読者としてはその可能性に一縷の望みをかけたいという思いも捨て切れない。
いずれにしても、本書は文学や芸術に関心を持ち続ける、安逸せる「兄弟なる人類」である多くの読者たちにとって、まさしく必読の一冊といえるだろう。
バルタザールの遍歴 (文春文庫)
小説の好きな人、本の好きな人、しばし現実を忘れて虚構の世界に遊びたい人、全ての人がこの作品を読む価値あり!です。とにかくこんなに濃密で破綻のない完璧な小説世界を、こんなに若い日本女性が描いた、それだけでスゴイ。1つの体に2つの人格が存在する、ウィーンの没落貴族の男性が主人公。1行の無駄もない、かといって簡素な文体なのではなく、なにげない1行も全て後々に重要な意味を持ってくる、洗練と皮肉と濃厚と、とてつもない味わいのある小説です。
ミノタウロス (講談社文庫)
物語は、社会や周囲の人間を軽蔑しきったヴァシリの視点から一人称でシニカルに語られていきます。
そして、当然ヴァシリは、自分の行動を正当化しようとします。
しかし、その一方で、作者は主人公のナイーブさを一人称の語りのなかにそっと忍びこませています。
たとえば、恋人テチヤーナに対する描写の箇所。
だからテチヤーナは、十八で、はちきれんばかりに健康で、(中略)信じられないくらい無邪気だった。抱きしめると一抱えもあって、裏返すと広い背中が馬の毛並みのように輝いて、肌は柔らかいというより針で突いたらはじけそうで、こんがり焦げた焼き菓子のような匂いがした。
ここなんていわゆる19世紀ヨーロッパの大衆小説の典型的な修辞で、恥ずかしくなるような紋切り型の連続です。かつて『皆殺しブックレビュー』で、作者がデビッド・ロッジの評論を紹介していましたが、底意地の悪さはまさにロッジ的です。
ある女性評論家が、この主人公と作者は似ていると言っていましたが、それは間違っているような気がします。
作者のほうが主人公より二枚も三枚も上手です(というより、物語と登場人物の操り具合がすさまじい)。
その後、ヴァシリのヘタレっぷりは、どんどん顕在化していきますが、前半部分の最後で、ついに信頼していたシチェルパートフという資本家に7ページに渡って罵倒されまくることで、彼のダメさ加減は、読者の前にすべてさらけだされます。
と、このように、シニカルでニヒリストであるはずのヴァシリのヘタレさが徐々に明らかになっていくというかなり難易度の高いベクトルが、前半部分の修辞と行間には巧妙に織り込まれています。しかも一人称視点であるにもかかわらず…。これだけとってみても「ミノタウロス」は傑作だと思います。
そして、当然ヴァシリは、自分の行動を正当化しようとします。
しかし、その一方で、作者は主人公のナイーブさを一人称の語りのなかにそっと忍びこませています。
たとえば、恋人テチヤーナに対する描写の箇所。
だからテチヤーナは、十八で、はちきれんばかりに健康で、(中略)信じられないくらい無邪気だった。抱きしめると一抱えもあって、裏返すと広い背中が馬の毛並みのように輝いて、肌は柔らかいというより針で突いたらはじけそうで、こんがり焦げた焼き菓子のような匂いがした。
ここなんていわゆる19世紀ヨーロッパの大衆小説の典型的な修辞で、恥ずかしくなるような紋切り型の連続です。かつて『皆殺しブックレビュー』で、作者がデビッド・ロッジの評論を紹介していましたが、底意地の悪さはまさにロッジ的です。
ある女性評論家が、この主人公と作者は似ていると言っていましたが、それは間違っているような気がします。
作者のほうが主人公より二枚も三枚も上手です(というより、物語と登場人物の操り具合がすさまじい)。
その後、ヴァシリのヘタレっぷりは、どんどん顕在化していきますが、前半部分の最後で、ついに信頼していたシチェルパートフという資本家に7ページに渡って罵倒されまくることで、彼のダメさ加減は、読者の前にすべてさらけだされます。
と、このように、シニカルでニヒリストであるはずのヴァシリのヘタレさが徐々に明らかになっていくというかなり難易度の高いベクトルが、前半部分の修辞と行間には巧妙に織り込まれています。しかも一人称視点であるにもかかわらず…。これだけとってみても「ミノタウロス」は傑作だと思います。