美貌なれ昭和―諏訪根自子と神風号の男たち (文春文庫 (219‐9))
本書では,1920(大正9)年生まれの,美貌の天才ヴァイオリニスト・諏訪根自子(すわ ねじこ)と,あの特攻隊の「神風」ではない,朝日新聞社所有の国産の2人乗り高速通信連絡機の「神風号」の飯沼正明操縦士・塚越賢爾機関士の生涯が並行して描かれています。今のようにネットや電話・FAX・TVが一般的でない時代,特に海外の情報に関する記事は,飛脚のように航空機で運び,新聞紙上で発表するのが一般的だったんですね。新聞各社が他社を「抜く」あるいは「抜かれない」ためには,優秀な飛行機やパイロット,整備士などが必要だったのです。
「諏訪根自子と〜」というサブタイトルとあまり合いませんが,本書で最も読み応えがあるのは「神風号」と飯沼・塚越両氏に関する部分です。こちらだけで話をまとめたほうが作品の仕上がりとしては随分よくなったように思います。でも,深田氏があえて諏訪さんのことを削らなかったのは,この方についての記録をどうしても残しておきたかったのでしょう。
諏訪根自子さんと飯沼・塚越両氏にわずかに接点はありますが,第2次大戦開戦前後の同時代を生きた,全く分野の異なる人たちの2つの物語です。ただ,当時の日本人の真摯で一途な在り方は共通しています。本書の巻頭には写真が数点掲載されているのですが,諏訪さんの美貌は有名ですが,たまたま,飯沼・塚越両氏も美男です。あの頃の日本は若くて美しかったんだと,つい思ってしまいます。
飯沼・塚越両氏は残念ながら若くして亡くなります。諏訪さんも大変な苦労をされて帰国したものの,1960年頃から第一線からは退かれたそうで,本年2012年3月に亡くなられていたことが9月に報じられましたね。
手堅い硬派のプロの文章とはこういうものだと,久しぶりに文章そのものにも感銘を受けました。いい作品でした。
「諏訪根自子と〜」というサブタイトルとあまり合いませんが,本書で最も読み応えがあるのは「神風号」と飯沼・塚越両氏に関する部分です。こちらだけで話をまとめたほうが作品の仕上がりとしては随分よくなったように思います。でも,深田氏があえて諏訪さんのことを削らなかったのは,この方についての記録をどうしても残しておきたかったのでしょう。
諏訪根自子さんと飯沼・塚越両氏にわずかに接点はありますが,第2次大戦開戦前後の同時代を生きた,全く分野の異なる人たちの2つの物語です。ただ,当時の日本人の真摯で一途な在り方は共通しています。本書の巻頭には写真が数点掲載されているのですが,諏訪さんの美貌は有名ですが,たまたま,飯沼・塚越両氏も美男です。あの頃の日本は若くて美しかったんだと,つい思ってしまいます。
飯沼・塚越両氏は残念ながら若くして亡くなります。諏訪さんも大変な苦労をされて帰国したものの,1960年頃から第一線からは退かれたそうで,本年2012年3月に亡くなられていたことが9月に報じられましたね。
手堅い硬派のプロの文章とはこういうものだと,久しぶりに文章そのものにも感銘を受けました。いい作品でした。
諏訪根自子の芸術
冒頭の「ユモレスク」を聴いていて涙がこぼれました。花粉症の時期(2013年4月)であることが関係したのかどうか分かりませんが、「CDを聴いて涙が出る」経験は記憶にありません。それほど、13歳の諏訪根自子嬢が、昭和8年(1933年)に日本コロムビアに吹き込んだ演奏は超絶的に素晴らしいものでした。
史上最高のヴァイオリニストとされるジネット・ヌヴーの演奏と遜色ない、と私は思います。
演奏旅行で日本を訪れ、この時期の諏訪根自子嬢の演奏を聴いた複数の著名ヴァイオリニストが「早く欧州に留学させた方がいい」「根自子嬢の技術は完璧。欧州にもこんな凄い子供はいない」と激賞しています。
駐日ベルギー大使が諏訪根自子嬢の演奏を聴いて、「欧州でもこんな演奏を聴いたことがない」と激賞し、根自子嬢がベルギー王室の賓客としてベルギーに留学するのを後押ししてくれています。
このCDで天才少女・諏訪根自子の演奏を聴けば、そういった賛辞に掛け値がなかったことが分かります。諏訪根自子嬢が留学した欧州で、ティボーなどの当時の大演奏家に高く評価され、日本人として初めてBPOやVPOと協演する栄誉を得たのも当然です。
この2枚組CDでは、諏訪根自子嬢が昭和8年〜10年の3年間、ベルギーに留学する直前に吹き込んだSP13枚(26面)が、現存する最高の状態のSP盤を、最高の蓄音器とされるヴィクトローラ・クレデンザで再生し、それをマイクでステレオ録音してCDに収めるという方法が取られております。
この手法は、蓄音器店「シェルマン」が、ヌヴーのSP盤などについて行っており、SP盤をデジタル化する一番良い方法と考えております。今回の日本コロムビアによるSP→CDの「変換」は、シェルマンの仕事と比べてもさらに上の理想的な仕上がりで、私のオーディオシステムで再生すると
『2本のスピーカーの間に13歳の諏訪根自子嬢が現れる』
としか形容できない素晴らしい出来映えです。
そして、このCDに収められた演奏は、80年前にSPレコードで発売された後、LPやCDで復刻された例がないとのことです。SPレコードの現物を入手して再生することの困難を考えますと、今回の復刻の意義は極めて大きいです。SP盤や蓄音器を提供して下さった各位、最高の音質でのCD化を実現して下さった日本コロムビア技術陣に深く敬意を表します。
同じ時期に発売された、1980年代、諏訪根自子女史が60代の時の録音を収めた「永遠なれ 諏訪根自子」では、50年の時を隔てて、「老い」を隠せないものの、円熟の極みに達した諏訪女史の演奏を聴けます。どちらも貴重な演奏ではありますが、私は諏訪根自子嬢13歳〜15歳の時の演奏を、現在可能な最高の方法でデジタル化したこのCDに軍配を上げます。
一人でも多くの方にこのCDを聴いて頂き、諏訪根自子女史、と言いますか、80年前の天才少女・諏訪根自子嬢の真価を知って頂きたいです。日本人としての誇りを感じます。
史上最高のヴァイオリニストとされるジネット・ヌヴーの演奏と遜色ない、と私は思います。
演奏旅行で日本を訪れ、この時期の諏訪根自子嬢の演奏を聴いた複数の著名ヴァイオリニストが「早く欧州に留学させた方がいい」「根自子嬢の技術は完璧。欧州にもこんな凄い子供はいない」と激賞しています。
駐日ベルギー大使が諏訪根自子嬢の演奏を聴いて、「欧州でもこんな演奏を聴いたことがない」と激賞し、根自子嬢がベルギー王室の賓客としてベルギーに留学するのを後押ししてくれています。
このCDで天才少女・諏訪根自子の演奏を聴けば、そういった賛辞に掛け値がなかったことが分かります。諏訪根自子嬢が留学した欧州で、ティボーなどの当時の大演奏家に高く評価され、日本人として初めてBPOやVPOと協演する栄誉を得たのも当然です。
この2枚組CDでは、諏訪根自子嬢が昭和8年〜10年の3年間、ベルギーに留学する直前に吹き込んだSP13枚(26面)が、現存する最高の状態のSP盤を、最高の蓄音器とされるヴィクトローラ・クレデンザで再生し、それをマイクでステレオ録音してCDに収めるという方法が取られております。
この手法は、蓄音器店「シェルマン」が、ヌヴーのSP盤などについて行っており、SP盤をデジタル化する一番良い方法と考えております。今回の日本コロムビアによるSP→CDの「変換」は、シェルマンの仕事と比べてもさらに上の理想的な仕上がりで、私のオーディオシステムで再生すると
『2本のスピーカーの間に13歳の諏訪根自子嬢が現れる』
としか形容できない素晴らしい出来映えです。
そして、このCDに収められた演奏は、80年前にSPレコードで発売された後、LPやCDで復刻された例がないとのことです。SPレコードの現物を入手して再生することの困難を考えますと、今回の復刻の意義は極めて大きいです。SP盤や蓄音器を提供して下さった各位、最高の音質でのCD化を実現して下さった日本コロムビア技術陣に深く敬意を表します。
同じ時期に発売された、1980年代、諏訪根自子女史が60代の時の録音を収めた「永遠なれ 諏訪根自子」では、50年の時を隔てて、「老い」を隠せないものの、円熟の極みに達した諏訪女史の演奏を聴けます。どちらも貴重な演奏ではありますが、私は諏訪根自子嬢13歳〜15歳の時の演奏を、現在可能な最高の方法でデジタル化したこのCDに軍配を上げます。
一人でも多くの方にこのCDを聴いて頂き、諏訪根自子女史、と言いますか、80年前の天才少女・諏訪根自子嬢の真価を知って頂きたいです。日本人としての誇りを感じます。
ブラームス:ヴァイオリン協奏曲
すべての芸術は模倣である、という、
全く何もないところから突然産まれてくるものはない、
先人の模倣は芸術の最構築であり、再生産である、
死者の残した芸術は生者の中に取り込まれ、
新たな芸術として蘇り、また次の世代へと継がれていく。
ブラームスもベートーベンも、諏訪根自子も死んでしまっているが、
このノイズだらけのCDを聴いた者の中に彼らの芸術は取り込まれ、
いつかまた何らかの形で蘇る、それこそが文化の継承というものだ。
全く何もないところから突然産まれてくるものはない、
先人の模倣は芸術の最構築であり、再生産である、
死者の残した芸術は生者の中に取り込まれ、
新たな芸術として蘇り、また次の世代へと継がれていく。
ブラームスもベートーベンも、諏訪根自子も死んでしまっているが、
このノイズだらけのCDを聴いた者の中に彼らの芸術は取り込まれ、
いつかまた何らかの形で蘇る、それこそが文化の継承というものだ。
諏訪根自子 美貌のヴァイオリニスト その劇的生涯 1920-2012
2012年9月25日 新聞に大きく諏訪根自子氏の訃報が掲載されていた。
当年3月に92歳の波乱の生涯を閉じたとのことだった。
諏訪根自子の生れは大正9年(1920)。
当時の日本には幼少時からのヴァイオリン教育のプログラムはまだなく、近所に住んでいた年上の少女が奏でるヴァイオリンを、見よう見まねで弾いていたようだ。
やがて評判が、ロシア革命で日本へ亡命していたロシア人ヴァイオリニスト小野アンナの目に止まる。
アンナの元で才能を伸ばした根自子は、さらに同じく在日中のロシア人ヴァイオリニストモギレフスキーに師事し腕を上げ、レコードデビューへとつながっていく。
デビュー当時の昭和7年、根自子はまだ12歳だ。
「ヨーロッパで本場の修業を」との周囲の声が高まり、16歳で一人ヨーロッパへ音楽修行の旅へ立つ。
しかし、ヨーロッパではナチスが台頭し、根自子の住むパリもナチスの支配下に置かれてゆく。
そんな中、日独伊三国同盟の証しとして、ナチスドイツの宣伝相ゲッペルスより、イタリアの名器ストラディヴァリウスを贈られる。
根自子は、ヨーロッパ各地で演奏活動をこなして行くが、戦況は激しくなりパリでは連合国軍による空襲が始まる。
ヴァイオリンひとつを手にしたパリからベルリンへの逃避行は、空襲やゲリラに襲われ命からがら脱出したようだ。
ドイツ降伏後は連合軍に拘束され、アメリカの収容施設へ送られていく。
帰国できたのはおよそ8年振り、昭和20年12月、25歳の時だった。
再び日本で演奏活動を始めるが、ナチスから贈られたストラドは「戦時下の略奪品では?」との憶測を呼ぶ。
やがて、彼女の活動も減少し人々の記憶からも消えてしまう。
その後、戦時下のベルリン大使館で外交官補として働いていた大賀小四郎(この時は東大教授)と再開し結婚する。
20年以上の沈黙の後、昭和56年「バッハ、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタと、パルティータ曲集」の3枚組LPレコードを発表する。
この演奏はレコード会社に勤める義弟の勧めで数年間にわたり録音を重ねてきた作品だ。
今このLPをヤフオクで買うと5万円以上する。
その後は、私的サロンや小さな演奏会には出演していた彼女も、昭和59年のリサイタルが最後の出演となる。
再び長く表には出ることはなかった。
そして、およそ30年ぶりに表に出たのが冒頭の訃報だ。
享年92歳。
波乱に満ちた、人生だ。
しかし、こんな格調の高い人生なら一度味わってみたい。
当年3月に92歳の波乱の生涯を閉じたとのことだった。
諏訪根自子の生れは大正9年(1920)。
当時の日本には幼少時からのヴァイオリン教育のプログラムはまだなく、近所に住んでいた年上の少女が奏でるヴァイオリンを、見よう見まねで弾いていたようだ。
やがて評判が、ロシア革命で日本へ亡命していたロシア人ヴァイオリニスト小野アンナの目に止まる。
アンナの元で才能を伸ばした根自子は、さらに同じく在日中のロシア人ヴァイオリニストモギレフスキーに師事し腕を上げ、レコードデビューへとつながっていく。
デビュー当時の昭和7年、根自子はまだ12歳だ。
「ヨーロッパで本場の修業を」との周囲の声が高まり、16歳で一人ヨーロッパへ音楽修行の旅へ立つ。
しかし、ヨーロッパではナチスが台頭し、根自子の住むパリもナチスの支配下に置かれてゆく。
そんな中、日独伊三国同盟の証しとして、ナチスドイツの宣伝相ゲッペルスより、イタリアの名器ストラディヴァリウスを贈られる。
根自子は、ヨーロッパ各地で演奏活動をこなして行くが、戦況は激しくなりパリでは連合国軍による空襲が始まる。
ヴァイオリンひとつを手にしたパリからベルリンへの逃避行は、空襲やゲリラに襲われ命からがら脱出したようだ。
ドイツ降伏後は連合軍に拘束され、アメリカの収容施設へ送られていく。
帰国できたのはおよそ8年振り、昭和20年12月、25歳の時だった。
再び日本で演奏活動を始めるが、ナチスから贈られたストラドは「戦時下の略奪品では?」との憶測を呼ぶ。
やがて、彼女の活動も減少し人々の記憶からも消えてしまう。
その後、戦時下のベルリン大使館で外交官補として働いていた大賀小四郎(この時は東大教授)と再開し結婚する。
20年以上の沈黙の後、昭和56年「バッハ、無伴奏ヴァイオリンのためのソナタと、パルティータ曲集」の3枚組LPレコードを発表する。
この演奏はレコード会社に勤める義弟の勧めで数年間にわたり録音を重ねてきた作品だ。
今このLPをヤフオクで買うと5万円以上する。
その後は、私的サロンや小さな演奏会には出演していた彼女も、昭和59年のリサイタルが最後の出演となる。
再び長く表には出ることはなかった。
そして、およそ30年ぶりに表に出たのが冒頭の訃報だ。
享年92歳。
波乱に満ちた、人生だ。
しかし、こんな格調の高い人生なら一度味わってみたい。