静かな時
駒沢裕城の奏でるペダル・スティール・ギターの音色はクラッシック音楽の弦楽器にも似た調べで、耳を澄ます者達の心の隅々にゆっくりゆっくりと染み込んでいきます。それは朝早くの澄みきった空気であり、澱みのない水のようです。全曲から聞こえてくるペダル・スティール・ギターの音色には派手なものは何もありませんが、彼が奏でるペダル・スティール・ギターによって紡がれたメロディの中に生命の息遣いを感じ取る事が出来ます。それは日々の生活の中で彼自身が見つけた尽きさせてはいけない永遠の命の大切さを、このアルバムの収録曲の演奏に注ぎ込んでいるからなのでしょう。収録曲全てにおいて神秘的で荘厳な生命力に溢れたアルバムだと思います。
駒沢あたりで '78年度作品 (紙ジャケット仕様)
オリジナルLPは1976年7月25日にテイチク、ブラック・レーベルから発売。加川良6枚目のアルバムです。ベルウッドから出た『アウト・オブ・マインド』で聴いた心地よさがこのアルバムでは全開です。レイジー・ヒップとの競演で、ギターを抱えて唄う良さんの舞台が見えてくるようなアルバムに仕上がっています。標題曲「駒沢あたりで」は、教訓に始まった加川良の歌の世界が、ここまででずいぶん変わったように聞こえて、でも、よ〜く聞くと初めからこうだったんだと気づかされる一曲です。「女の証し」も「オレンジキャラバン」も「祈り」も、全ての曲が優しさに包まれています。しかも、バンドのサウンドもしっかりしていて聴き応え充分です。
一度CD復刻されたものの、品切れ状態が続き永らく入手困難でしたが、テイチクからこのアルバムを含めて3枚が復刻され、(しかもリマスタリングで、)良さんの歌声に再び出合えることになりました。あとはNEWSレーベルから出た『プロポーズ』の復刻が期待されます。あわせて、レイジー・ヒップの復刻も是非。
「駒沢あたりで」のみ作詞・作曲:菊田修一、ほかは全曲:加川良作詞作曲。
レイジー・ヒップ:長田和承:GUITAR
安田直哉:GUITAR
岩本千秋:VOCAL
菱川英一:KEY BOARDS
山本正明:BASS
野口実智男:DRUMS
一度CD復刻されたものの、品切れ状態が続き永らく入手困難でしたが、テイチクからこのアルバムを含めて3枚が復刻され、(しかもリマスタリングで、)良さんの歌声に再び出合えることになりました。あとはNEWSレーベルから出た『プロポーズ』の復刻が期待されます。あわせて、レイジー・ヒップの復刻も是非。
「駒沢あたりで」のみ作詞・作曲:菊田修一、ほかは全曲:加川良作詞作曲。
レイジー・ヒップ:長田和承:GUITAR
安田直哉:GUITAR
岩本千秋:VOCAL
菱川英一:KEY BOARDS
山本正明:BASS
野口実智男:DRUMS
アメリカのパイを買って帰ろう―沖縄58号線の向こうへ
アメリカ世という呼び方を、この本で初めて知りました。今まで、外側から見た沖縄しか知らなかったんだなあ。というのも、今の我々(ヤマトンチュ)には沖縄にはある種の罪悪感があります。実際に沖縄に行けば今も残るアメリカの影響を楽しむことは楽しむけど、占領時代の事は聞いちゃいけないし、最悪だったという風に思いやって、それが逆に蓋をしてしまっていた、と思うわけです。もちろん、戦争時代の悲惨さや占領時代の数々の悲劇、今も改正されない米兵犯罪の不平等さは絶対にこのままにしていてはいけないし、何とかしなければと強く思います。そしてこれは沖縄の人々のためだけではなく、アメリカの人々のためでもあるのではないでしょうか。というのも、マスコミから聞こえてくるのはもっぱら粗暴で鬼畜のような米兵の姿だけだけれども、この本を読むと、実はアメリカ人も同じ生身の人間で、彼らだって戦争が怖いし、戦争に行きたくないという人が多くいて、そういう若い彼らが恐怖に震え、沖縄で「米兵と基地は出ていけ」と言われながら、大きな背中を丸めてココイチのカレーを食べてる姿を想像することになり、彼らも可哀そうなのかもなと思うわけです。
他の方も書いていらっしゃるように、多くの沖縄の本から聞こえてくるような、焼けつくような叫びは聞こえては来ないかもしれません。しかしそれらが書かない、あるいは叫び声が強すぎてかき消されている景色を、ラジオから聞こえてくるカントリーミュージックのように教えてくれる。そんな本です。
他の方も書いていらっしゃるように、多くの沖縄の本から聞こえてくるような、焼けつくような叫びは聞こえては来ないかもしれません。しかしそれらが書かない、あるいは叫び声が強すぎてかき消されている景色を、ラジオから聞こえてくるカントリーミュージックのように教えてくれる。そんな本です。
人生は彼女の腹筋
「惜しまれながら逝った作家の最後の作品集」
帯のコピーに目を奪われた。
駒沢敏器という名に出会ったとき、その未知の書き手は既に亡くなっていた。
『人生は彼女の腹筋』
というタイトルにも惹かれた。意味不明なのに明らかに何らかの示唆を隠しているという予感がある。
帯のコピーは、
「場所と時間、出会いと別れを紡いだ『ここではないどこかへ』の物語」とつづく。
単行本や文庫本につけられた帯のキャッチコピーに惹かれることは、私の場合はまずない。たいがいは売り手がウケを狙って「煽り」目的で書いた下劣な意図がミエミエで嫌だと思うことがほとんどだ。
だが、このコピーは上品に抑制が利いていて、秀逸な追悼文だと感じた。
気がつくと、書店の平台の中でひときわ低くなっている窪みの底から、不可思議な遺言というべきこの一冊を手に取っていた。
読んで鳥肌がたったなら、その本のレビューを書いて世の中の人の目に触れるところに公開することを、私はセオリーにしている。
表題作の「人生は彼女の腹筋」の中に鳥肌ポイントはあった。
それは、友人のインド人ビジネスマン宅のパーティーに招かれた主人公が、意味ありげに、
「今日、あれはあるのかい?」と、問い。
「君のために用意しておいた。2階にある。あとで好きなときにやってくれ」
という会話があって、主人公は多国籍のパーティー客が乱痴気騒ぎをする部屋を離れて密かにあるモノを試す。
そうして、そこに友人の究極に美しい身体の持ち主の妻が一人でやってきて、セーターを自らたくしあげて見事に割れた腹筋に触れさせさらには胸まで触れさせる。
ここまで描いておきながら、主人公が「やった」のはドラッグなんかじゃないし、友人の妻とも「やり」はしない。
世に氾濫したありきたりでワンパターンな映画や小説に毒された読者の下劣な先入観を見事に裏切って見せてくれる(ではやったのは何か、はネタバレになりますからここでは言えない)。
「ここではないどこかへ」の物語という帯のコピーは、こういう下劣な読者の思惑とは違うところというのがひとつの意味のようで小気味よい。
もうひとつ、「ここではないどこか」を示唆する意味ありげだがよくはわからないヒントのような箇所があって、私は思わず鳥肌が立った。
それは、友人の妻の本棚を見て小説家である主人公が本棚の持ち主である彼女の内面について語るシーンだ。
本棚にならぶ本を見てそれらを選んだ人間の人間性を汲み取るというのは、本好き読書好きの者には一種堪らない誘惑に満ちた行為だろう。
精神分析者のラカン
2冊のフロイトとユングが数冊
かなりたくさんの澁澤龍彦
量子力学に関する一般書
19世紀のロシア文学
僕の最も疎いフランス文学
大江健三郎がいくつか
村上春樹もほぼ揃っている
というような本棚だ。
その本棚の持ち主である彼女が主人公の小説を読んだ感想を言おうとする。
その続きを引用するとこうだ。
ー「君からの感想は聞きたくない」僕は笑った。「楽しく読ませていただいたわ」彼女は言った。
「言葉のリズムが私には馴染んだのよ。考え方とか内容がどうこうよりもまず、高田さんの文書のリズムは私にはとっても正解だった」
「大江健三郎を読んでいる君の言うリズムっていうのは、どこまで信用していいのかな。しかも僕はフランス語がぜんぜんできない」ー
大江健三郎の作品は、おそらくは意味深長なのだろうが正しく意味がくみ取れたと確信が持てたことが私には一度もない。それは、我が国でも随一といっていいくらい文体が晦渋だからだ。もっとはっきりいうと、大江健三郎の書いた文ほど歯切れが悪くてリズムが悪い文はないと私は強く思っている。だから、主人公の気持ちから言わせると、(あんな奴の本をいいと思っている君からリズムがいいとか言われても、信じられないね)ということだろう。そうしてまた、私はフランスとパリの街は大好きで、また小鳥のさえずりのようなフランス語の響きとリズムが大好きだ。だがしかし、哀しいかなフランス語は全く理解できない。だから、あまりにも大きく深い共感からぞくっと鳥肌がたったのかもしれない。
未知の書き手ではあったが、略歴をみると元雑誌「SWITCH」編集者とある。だから、気づかないうちにこの人の文章は幾つか読んでいるのかもしれない。
略歴には2012年逝去とだけある。
この書き手が示唆した「ここではないどこか」とはどこなのだろう。51歳の若さで逝った作家はヒントだけ残した。
公の略歴には記されていない死因はなんなのか気になってググってみた。
ウィキペディアになにげに載っていた死因は、
絞殺だった。
この書き手の人生は、一体何を示唆しているのだろうか。
少なくとも、この書き手が否定した下劣でワンパターンなストーリーのようなものではないことだけは確かだろう。
それが何なのか、考え続けることで追悼とさせていただきたい。
ご冥福をお祈りいたします。
帯のコピーに目を奪われた。
駒沢敏器という名に出会ったとき、その未知の書き手は既に亡くなっていた。
『人生は彼女の腹筋』
というタイトルにも惹かれた。意味不明なのに明らかに何らかの示唆を隠しているという予感がある。
帯のコピーは、
「場所と時間、出会いと別れを紡いだ『ここではないどこかへ』の物語」とつづく。
単行本や文庫本につけられた帯のキャッチコピーに惹かれることは、私の場合はまずない。たいがいは売り手がウケを狙って「煽り」目的で書いた下劣な意図がミエミエで嫌だと思うことがほとんどだ。
だが、このコピーは上品に抑制が利いていて、秀逸な追悼文だと感じた。
気がつくと、書店の平台の中でひときわ低くなっている窪みの底から、不可思議な遺言というべきこの一冊を手に取っていた。
読んで鳥肌がたったなら、その本のレビューを書いて世の中の人の目に触れるところに公開することを、私はセオリーにしている。
表題作の「人生は彼女の腹筋」の中に鳥肌ポイントはあった。
それは、友人のインド人ビジネスマン宅のパーティーに招かれた主人公が、意味ありげに、
「今日、あれはあるのかい?」と、問い。
「君のために用意しておいた。2階にある。あとで好きなときにやってくれ」
という会話があって、主人公は多国籍のパーティー客が乱痴気騒ぎをする部屋を離れて密かにあるモノを試す。
そうして、そこに友人の究極に美しい身体の持ち主の妻が一人でやってきて、セーターを自らたくしあげて見事に割れた腹筋に触れさせさらには胸まで触れさせる。
ここまで描いておきながら、主人公が「やった」のはドラッグなんかじゃないし、友人の妻とも「やり」はしない。
世に氾濫したありきたりでワンパターンな映画や小説に毒された読者の下劣な先入観を見事に裏切って見せてくれる(ではやったのは何か、はネタバレになりますからここでは言えない)。
「ここではないどこかへ」の物語という帯のコピーは、こういう下劣な読者の思惑とは違うところというのがひとつの意味のようで小気味よい。
もうひとつ、「ここではないどこか」を示唆する意味ありげだがよくはわからないヒントのような箇所があって、私は思わず鳥肌が立った。
それは、友人の妻の本棚を見て小説家である主人公が本棚の持ち主である彼女の内面について語るシーンだ。
本棚にならぶ本を見てそれらを選んだ人間の人間性を汲み取るというのは、本好き読書好きの者には一種堪らない誘惑に満ちた行為だろう。
精神分析者のラカン
2冊のフロイトとユングが数冊
かなりたくさんの澁澤龍彦
量子力学に関する一般書
19世紀のロシア文学
僕の最も疎いフランス文学
大江健三郎がいくつか
村上春樹もほぼ揃っている
というような本棚だ。
その本棚の持ち主である彼女が主人公の小説を読んだ感想を言おうとする。
その続きを引用するとこうだ。
ー「君からの感想は聞きたくない」僕は笑った。「楽しく読ませていただいたわ」彼女は言った。
「言葉のリズムが私には馴染んだのよ。考え方とか内容がどうこうよりもまず、高田さんの文書のリズムは私にはとっても正解だった」
「大江健三郎を読んでいる君の言うリズムっていうのは、どこまで信用していいのかな。しかも僕はフランス語がぜんぜんできない」ー
大江健三郎の作品は、おそらくは意味深長なのだろうが正しく意味がくみ取れたと確信が持てたことが私には一度もない。それは、我が国でも随一といっていいくらい文体が晦渋だからだ。もっとはっきりいうと、大江健三郎の書いた文ほど歯切れが悪くてリズムが悪い文はないと私は強く思っている。だから、主人公の気持ちから言わせると、(あんな奴の本をいいと思っている君からリズムがいいとか言われても、信じられないね)ということだろう。そうしてまた、私はフランスとパリの街は大好きで、また小鳥のさえずりのようなフランス語の響きとリズムが大好きだ。だがしかし、哀しいかなフランス語は全く理解できない。だから、あまりにも大きく深い共感からぞくっと鳥肌がたったのかもしれない。
未知の書き手ではあったが、略歴をみると元雑誌「SWITCH」編集者とある。だから、気づかないうちにこの人の文章は幾つか読んでいるのかもしれない。
略歴には2012年逝去とだけある。
この書き手が示唆した「ここではないどこか」とはどこなのだろう。51歳の若さで逝った作家はヒントだけ残した。
公の略歴には記されていない死因はなんなのか気になってググってみた。
ウィキペディアになにげに載っていた死因は、
絞殺だった。
この書き手の人生は、一体何を示唆しているのだろうか。
少なくとも、この書き手が否定した下劣でワンパターンなストーリーのようなものではないことだけは確かだろう。
それが何なのか、考え続けることで追悼とさせていただきたい。
ご冥福をお祈りいたします。