ジェンダー論をつかむ (テキストブックス[つかむ])
専門的にジェンダー論を学んだ人ではなくとも、読めると思います。
構成は大きく8つの章から成り、各章ごとに2から4のユニット(全部で25のユニット)です。
それぞれのユニットのページ数は8ページほどです。
まず、「性別」を「ジェンダー」という視点からとらえなおすということで
「ジェンダーとはなんぞや」という「ジェンダー定義」からはじまります。(第1章)
そしてジェンダーと家族(第2章)、労働(第3章)、教育(第4章)
日常生活(第5章)、国家(第6章)、身体(第7章)、フェミニズム(第8章)
というさまざまな領域を「ジェンダー」で読み解き、分析・検討していきます。
このように書くと、難しい内容のように思われがちですが、
この本の内容は平易で読みやすいです。
自分の中に「ジェンダー」という社会・世界を読み解くためのひとつの道具・ものさしを
得ることで、そのジェンダーを使った見方で社会や世界の構造を理解できるようになると思います。
個人的に興味深かったのは第4章の教育とジェンダー、
第5章の日常生活とジェンダー、第6章の国家とジェンダー
でした。
第4章
近代社会における学校教育の理念は、その人の持って生まれた属性(性別等)の違いにかかわらず
あらゆる人びとに平等な教育を施すことにあったはずなのに、戦前は男女別学で教育内容も異なり、戦後も男女で技術家庭科を別個に教えると
いうことが1992年まで公的に認められてきた矛盾。
男女で教育内容を同じにしてもなお、「かくれたカリキュラム」により社会全体のジェンダー構造が伝達され再生産され、結果の平等が達成されにくいということ。
学校において使われる教科書、男女別の制服、学校教員の配置、教師と生徒のやりとり、生徒同士のやりとりなどを通じて、
次世代へ、教える側の世代の持つ不平等やステレオタイプの伝達が行われてしまうこと、が「かくれたカリキュラム」にあたるということ。
さらに学校そのものが性別カテゴリーを生み出す再生産の場であることなど。は自分の経験に沿って読めました。
共学校のパワーバランスは男女平等ではない、女子校と共学校、どちらで学ぶにせよ女子の学習環境は常にリスクにさらされているということも
非常にうなづける部分でした。
ジェンダーフリー(な教育等)・バッシングは、背景を分析していくと、
「思想を取り締まりたい権力側が確信的に人々の誤解を煽るように仕向けて行った所業」であったことが明らかにされています。
ジェンダーフリーとは、個人の性自認に口をなんらはさむものではなく、ましてやその性を捨てろという主張でもない。
個人が自認する性別のせいで他者から不当な扱いをうけたり、生きにくさを感じていたりするならば、それを生み出す社会の構造を暴こうと
主張するものであり、個人を社会が構築してきた「ジェンダー・バイアス」から「フリー」(解放)にする考え方だということです。
つまり「ジェンダー・バイアス」を維持したい側にとっては「不都合な思想」である、ということでしょう。
第5章
日常生活において、男ジェンダー、女ジェンダーというものは自己演出し、演じられているキャラのようなものであり、
現実にいる個々の人々の特性と全て合致しているものではないといった内容の話。
人々の持つ諸特性が2つの性別で区分されるものばかりではない。
これも、個人的に日々年々実感するところです。
公共の場におけるストリートハラスメント(他者から受けるジェンダーにまつわる嫌がらせのこと)は、
された側にとっては、公共の場における自由な行動を抑制する大きな要因となり、された側の基本的人権を脅かすものといえます。
電車内での痴漢被害について、ここで取りあつかわれていたのが印象に残りました。
また、配偶者間、内縁の夫婦関係以外の交際関係・恋人段階における「デートDV」の話など、
最近になって可視化されてきた男女のパワーバランスと暴力の問題にも触れています。
第6章
「ジェンダー論」の基礎にある「平等」を考える際に必要となる「人権」という概念について、
成立と変化の経緯を追いかけつつ人権と国家との関係の話、人権の普遍性の範囲の追求がメインの1つとなる章です。
現在、「人権」とは、「すべての人が社会関係のなかで生と自由を享受すること、幸福を追求することができるための根拠で、
人が生まれながらもっている尊厳に基づくもの」とされます。
「人権」という概念は、誕生以来、国家との関係で定義され、限界に対する挑戦を受けるたびに変化し、現在の人権概念に至っている
経緯があるため、これからも変化していくものでもあります。
「人権」とはものすごく磐石であるものかと考えてきていましたが、
最近になって、人権概念誕生からの変化の経緯を読むたびに、実はものすごく不安定で脆いものなのではないかと思いはじめています。
変化の方向性・内容によっては、自分がいつ守られない側に国家との関係で区分けされるのか、それがいつ起こっても不思議ではない、
という危機感を抱くようになりました。
「ジェンダー概念は人権がなんであるかを批判的に検証し、変化させていくための原動力であり続けている」そうですが
人権を批判的に検証する道具でもあるジェンダー概念が、奪われたり抹殺されるリスクというものも考えずにはいられません。
まず人権の誕生と国民国家の成立、国民という枠組みからとらえる人権の享有主体の範囲の話です。
「国民」という枠組みは、その中に平等な権利を持つ主体をつくりだしながら、
同時にその外側に不平等に扱われる「国民ではない」人々を作り出す。
これは日本だけではなく、人権が国家と対になって存在してきたことの問題でもあります。
では誰を「国民」とするのか?
フランスはじめ多くの国では最初は「成人男性市民」だけでした。成人男性の中での身分格差による制限が無くなった後の「普通選挙」実施後
も「女性・子供」は国民の中に含まれていないまま。(戦前の日本もここに該当)
フランスでは男性の普通選挙権成立から約100年後、スイスを除く西欧で最も遅く女性選挙権が成立(1944年)します。
スイスでは女性に参政権が認められたのは1970年代です。
日本では男性普通選挙権成立は戦前の1925年、女性参政権は戦後の1945年成立し、1946年初めて行使されました。
次に、国民国家の枠組みや国家に対する個人の責務を超えて人権の普遍性を追求できないのか?という話です。
「国民ではない」人々の人権の侵害に対して、国民国家ではない別の機関が保障する、という方法が提示され、
国際人権規約、や女子差別撤廃条約、人種差別撤廃条約等の各種国際条約が挙げられています。
国際条約による普遍的人権の主張に対して、文化相対主義から批判されますが、この反論は
経済発展レベルの違う国同士の利害と国内部の権力関係の影響を受けてなされたため、純然たる人権がどうのという話では
ない面があり、軸をぶれさせないで追うのが大変でした。
「国家や地域の特性や歴史的、文化的、宗教的背景は考慮しなければならなく」とも、同時に、
「すべての人権の保障はそうした違いにかかわりなく国家の義務である」ということが、1993年の「世界人権会議」にて採択された
ウィーン宣言の内容でした。この宣言の重要なのは「人権の保障は国家の義務である」というところでしょうか。
最後に現在までの人権の発展過程を経て、「新しい権利」としての1例として、「親密な関係に関する権利」を挙げています。
この権利はジェンダーの面でもセクシュアリティの面でもいろいろな属性を持つ異なる個人を社会関係の基礎としています。
「同性婚」や「パートナーシップ制度」といった制度について、
それまで社会的に排除されていた性的マイノリティを親密な関係に関する権利を媒介にして不利益のないよう社会に包摂する制度
として同性婚やパートナーシップというものがある、と考えます。
人権の主体や内容はポジティブな方向に変わるだけでなくネガティブ方向に変わることもある、ということを念頭に置いて
できればポジティブ方向に変えていくようにしたい、ネガティブ方向の変化は阻止したい、と思わずにはいられません。
国家とジェンダーを扱った第6章には人権とジェンダーの他に、戦争と性暴力(性的奴隷とされる慰安婦の話)、
参政権と政治参加における男女格差、グローバリゼーションとジェンダーというユニットが含まれています。
全体的に平易で読みやすいので入門書としても、読書としても読んでみてください。
流れに沿って読めます。
構成は大きく8つの章から成り、各章ごとに2から4のユニット(全部で25のユニット)です。
それぞれのユニットのページ数は8ページほどです。
まず、「性別」を「ジェンダー」という視点からとらえなおすということで
「ジェンダーとはなんぞや」という「ジェンダー定義」からはじまります。(第1章)
そしてジェンダーと家族(第2章)、労働(第3章)、教育(第4章)
日常生活(第5章)、国家(第6章)、身体(第7章)、フェミニズム(第8章)
というさまざまな領域を「ジェンダー」で読み解き、分析・検討していきます。
このように書くと、難しい内容のように思われがちですが、
この本の内容は平易で読みやすいです。
自分の中に「ジェンダー」という社会・世界を読み解くためのひとつの道具・ものさしを
得ることで、そのジェンダーを使った見方で社会や世界の構造を理解できるようになると思います。
個人的に興味深かったのは第4章の教育とジェンダー、
第5章の日常生活とジェンダー、第6章の国家とジェンダー
でした。
第4章
近代社会における学校教育の理念は、その人の持って生まれた属性(性別等)の違いにかかわらず
あらゆる人びとに平等な教育を施すことにあったはずなのに、戦前は男女別学で教育内容も異なり、戦後も男女で技術家庭科を別個に教えると
いうことが1992年まで公的に認められてきた矛盾。
男女で教育内容を同じにしてもなお、「かくれたカリキュラム」により社会全体のジェンダー構造が伝達され再生産され、結果の平等が達成されにくいということ。
学校において使われる教科書、男女別の制服、学校教員の配置、教師と生徒のやりとり、生徒同士のやりとりなどを通じて、
次世代へ、教える側の世代の持つ不平等やステレオタイプの伝達が行われてしまうこと、が「かくれたカリキュラム」にあたるということ。
さらに学校そのものが性別カテゴリーを生み出す再生産の場であることなど。は自分の経験に沿って読めました。
共学校のパワーバランスは男女平等ではない、女子校と共学校、どちらで学ぶにせよ女子の学習環境は常にリスクにさらされているということも
非常にうなづける部分でした。
ジェンダーフリー(な教育等)・バッシングは、背景を分析していくと、
「思想を取り締まりたい権力側が確信的に人々の誤解を煽るように仕向けて行った所業」であったことが明らかにされています。
ジェンダーフリーとは、個人の性自認に口をなんらはさむものではなく、ましてやその性を捨てろという主張でもない。
個人が自認する性別のせいで他者から不当な扱いをうけたり、生きにくさを感じていたりするならば、それを生み出す社会の構造を暴こうと
主張するものであり、個人を社会が構築してきた「ジェンダー・バイアス」から「フリー」(解放)にする考え方だということです。
つまり「ジェンダー・バイアス」を維持したい側にとっては「不都合な思想」である、ということでしょう。
第5章
日常生活において、男ジェンダー、女ジェンダーというものは自己演出し、演じられているキャラのようなものであり、
現実にいる個々の人々の特性と全て合致しているものではないといった内容の話。
人々の持つ諸特性が2つの性別で区分されるものばかりではない。
これも、個人的に日々年々実感するところです。
公共の場におけるストリートハラスメント(他者から受けるジェンダーにまつわる嫌がらせのこと)は、
された側にとっては、公共の場における自由な行動を抑制する大きな要因となり、された側の基本的人権を脅かすものといえます。
電車内での痴漢被害について、ここで取りあつかわれていたのが印象に残りました。
また、配偶者間、内縁の夫婦関係以外の交際関係・恋人段階における「デートDV」の話など、
最近になって可視化されてきた男女のパワーバランスと暴力の問題にも触れています。
第6章
「ジェンダー論」の基礎にある「平等」を考える際に必要となる「人権」という概念について、
成立と変化の経緯を追いかけつつ人権と国家との関係の話、人権の普遍性の範囲の追求がメインの1つとなる章です。
現在、「人権」とは、「すべての人が社会関係のなかで生と自由を享受すること、幸福を追求することができるための根拠で、
人が生まれながらもっている尊厳に基づくもの」とされます。
「人権」という概念は、誕生以来、国家との関係で定義され、限界に対する挑戦を受けるたびに変化し、現在の人権概念に至っている
経緯があるため、これからも変化していくものでもあります。
「人権」とはものすごく磐石であるものかと考えてきていましたが、
最近になって、人権概念誕生からの変化の経緯を読むたびに、実はものすごく不安定で脆いものなのではないかと思いはじめています。
変化の方向性・内容によっては、自分がいつ守られない側に国家との関係で区分けされるのか、それがいつ起こっても不思議ではない、
という危機感を抱くようになりました。
「ジェンダー概念は人権がなんであるかを批判的に検証し、変化させていくための原動力であり続けている」そうですが
人権を批判的に検証する道具でもあるジェンダー概念が、奪われたり抹殺されるリスクというものも考えずにはいられません。
まず人権の誕生と国民国家の成立、国民という枠組みからとらえる人権の享有主体の範囲の話です。
「国民」という枠組みは、その中に平等な権利を持つ主体をつくりだしながら、
同時にその外側に不平等に扱われる「国民ではない」人々を作り出す。
これは日本だけではなく、人権が国家と対になって存在してきたことの問題でもあります。
では誰を「国民」とするのか?
フランスはじめ多くの国では最初は「成人男性市民」だけでした。成人男性の中での身分格差による制限が無くなった後の「普通選挙」実施後
も「女性・子供」は国民の中に含まれていないまま。(戦前の日本もここに該当)
フランスでは男性の普通選挙権成立から約100年後、スイスを除く西欧で最も遅く女性選挙権が成立(1944年)します。
スイスでは女性に参政権が認められたのは1970年代です。
日本では男性普通選挙権成立は戦前の1925年、女性参政権は戦後の1945年成立し、1946年初めて行使されました。
次に、国民国家の枠組みや国家に対する個人の責務を超えて人権の普遍性を追求できないのか?という話です。
「国民ではない」人々の人権の侵害に対して、国民国家ではない別の機関が保障する、という方法が提示され、
国際人権規約、や女子差別撤廃条約、人種差別撤廃条約等の各種国際条約が挙げられています。
国際条約による普遍的人権の主張に対して、文化相対主義から批判されますが、この反論は
経済発展レベルの違う国同士の利害と国内部の権力関係の影響を受けてなされたため、純然たる人権がどうのという話では
ない面があり、軸をぶれさせないで追うのが大変でした。
「国家や地域の特性や歴史的、文化的、宗教的背景は考慮しなければならなく」とも、同時に、
「すべての人権の保障はそうした違いにかかわりなく国家の義務である」ということが、1993年の「世界人権会議」にて採択された
ウィーン宣言の内容でした。この宣言の重要なのは「人権の保障は国家の義務である」というところでしょうか。
最後に現在までの人権の発展過程を経て、「新しい権利」としての1例として、「親密な関係に関する権利」を挙げています。
この権利はジェンダーの面でもセクシュアリティの面でもいろいろな属性を持つ異なる個人を社会関係の基礎としています。
「同性婚」や「パートナーシップ制度」といった制度について、
それまで社会的に排除されていた性的マイノリティを親密な関係に関する権利を媒介にして不利益のないよう社会に包摂する制度
として同性婚やパートナーシップというものがある、と考えます。
人権の主体や内容はポジティブな方向に変わるだけでなくネガティブ方向に変わることもある、ということを念頭に置いて
できればポジティブ方向に変えていくようにしたい、ネガティブ方向の変化は阻止したい、と思わずにはいられません。
国家とジェンダーを扱った第6章には人権とジェンダーの他に、戦争と性暴力(性的奴隷とされる慰安婦の話)、
参政権と政治参加における男女格差、グローバリゼーションとジェンダーというユニットが含まれています。
全体的に平易で読みやすいので入門書としても、読書としても読んでみてください。
流れに沿って読めます。
IN A DIFFERENT VOICE: Psychological Theory and Women's Development
書籍の状態、梱包がたいへんよく、満足している。とにかく、入手が難しい本を購入できたことが嬉しい。